『尊卑分脈』で西行には「権律師隆聖」という男子が記され、子孫 佐藤正岑の子が長束正家(なかつかまさいえ:豊臣政権の五奉行の一人)と伝承される。また、目崎徳衛『西行』(吉川弘文館)の佐藤氏略系図には義清の子として男子隆聖、と慶縁、そして女子二人が記されている。
西行が親友憲康の急死を知り駆けつけ、出家遁世を決めて帰宅した日に「四歳になる娘が縁に出むかえて袖にすがりついてきた。煩悩のきずなを断たなければと、娘を縁の下に蹴落とすと、娘は泣き悲しんだ。」と記載された。その娘は、その後どの様になったのかは『西行物語』に記載されている。また、鎌倉初期に鴨長明が、晩年に編著した仏教説話集である『発心集』第六の五話に『西行が女子、出家の事』が基となっている。『発心集』では、西行が絶えず娘の動向に注意し動静を耳にしていたという記述と、二人の心中思惟をそれぞれ詳しくまとめられた。その中で、出家した後の事を弟(仲清)に託している。「幼き女子の殊に悲しうしけるを、さすがに見捨てがたく、いかさまにせむと思えども、うしろやするべき人も覚えザりければ、なほこの弟の主の子にして、いとほしきみすべ由、ねんごろにいひ置きける」。『西行物語』では西行が知人から娘の一切の経過を知らされた記述を取っている。
桑原博著『西行物語 全訳注』から記載させて頂く。西行が京に戻り縁ある人を訪ね、一晩中昔のことを語り合った。お互い涙で袖を濡らしたとされる。「さても、さばかりいとほしがらせ給ひし姫君の事、いとほしさよ」と、「それにしてもあれほどいとおしくお思いであった姫君の事はお気の毒でしたね」と、その話は続く。佐藤義清が出家遁世し法名を西行とした際に、妻もすぐに剃髪し一・二年は娘と一緒に暮らしていた。九条刑部卿(藤原顕頼)の娘で、冷泉院殿の御局(みつぼのつぼね)が養女にして大変かわいがられたという。妻は高野山の麓の天野と言う所で、仏道修行に入り最近は音信不通であると言う。顕頼の今本妻とする女の娘に、伯耆の三位(播磨三位家明)を婿にとったので、御局の娘を上臈女房(身分の高い女官、禁色を許された女房)としてお仕えさせた。しかし、娘(西行の娘は、妹とされている)は神仏に宮仕えしたいと望み現世、現世での行方を教えてほしいと泣き悲しんだ。西行はそれを聞き、気にも止めない風で帰って行ったとされる。
次の日、西行は冷泉殿の近くの屋敷に行きそこの主人に頼み娘との対面を依頼した。娘は「我が父君は、そのように道心を起こされて出家したと聞いた」と思い当たり、急ぎ駆けつけると黒染めの衣を着、すっかりやせ細った姿を見、それがわが父と聞くや、涙がとめどなく流れた。西行も幼い娘とすっかり変わり、今はまったく美しい娘に成長したと、しみじみ思うのであった。西行は「長年、お互い行方も知れず、今こうして逢う事が出来た。それにしても親子に生まれるのは、前世に因縁が浅くはなかったからだ。私の言葉に従いなさるか」という。娘は「親であられるので、どうしてお言葉に背くことが出来ましょうか」。「お前がまだ幼い時、私の気持ちとしては何とか大切に育て、上皇御所や内裏にでも宮仕えさせようなど思ったが、私がこうして出家の身になったからはどうしようもなかった。この様に見捨てながらも、いつも心乱れるのは、貴方のことを思う時だけだった。つまらぬ宮仕えは、人にあなどられるばかりだ。現世には詮ずるところ夢か幻のようなもので、若い盛りであるものも、老い衰えるまではほんの少しの間、ただ尼になって、母と一緒に暮らし、来世の極楽浄土にお生まれなされ。私も極楽に行けたなら、急いであなたをお迎えしよう」と西行が言い終わると、娘はしばらく物思い涙を抑え「わたくしは幼き時から、父母にご一緒していただけず、万事に、卑しき身となって、どうにか伝手が欲しく、いっそ出家ししたいと思っておりました」。「西行は笑みを浮かべ、いついつの日に、乳母の元へ来られし」と約束して帰って行った。
約束の日になると、姫は髪などを洗い待つうちに迎えの牛車が部屋の前に寄せられた。出ようとしたが「少しお待ちくださいと言って奥に入り冷泉殿をじっと見守り涙ぐんで出て行った。その後帰りが遅いのを待ちかねて迎えの車をやったところ、「もう、髪を切ってお出になりました」という言葉を耳にして、冷泉殿は「この娘は、六歳の時から少しも私の傍を離さないで、類ないほど可愛く思って来たが私の思うほど娘の方は考えてくれなかったのだ」とお恨みになった。「しかし出て行く時、私をつくづくと見守っていたのはあわれな事だった」と言って、泣き悲しまれるのであった。
八一八 消えぬめる本の雫を思ふにも誰かは末の露のみならぬ ―もう消えてしまった根元の露の雫を思うにつけ、誰がそれに続いて消えるはずのこずえの露でないことがあろうか。誰もがみな、いずれは消えるはかない存在なのだ。
西行は姫を迎えて、背丈ほどの伸びた髪を左右に結い分け、出家に先立つ授戒を受けて言うには、「私は、在欲の昔、世俗の道をひた走り、地獄にも相当する怪しげな家々を訪ね、宮廷に出仕して奉公しているという誇りを喜び、妻子や財宝に心を惹かれ、はかない現世を離れる事が出来なかった。だが咲く花は最後は風のままに散り、出る月は雲に覆われて沈む。昨日会った人も、今日は死ぬ。所詮すべては風前の灯、稲妻の一瞬の光、夢や幻と同類と分かって、一切の煩悩を払い捨てて、出家を遂げ、山林をさすらう修行僧の道に入り、托鉢僧の境涯となったのだが凡人の身であるから、やはりお前の事だけは忘れられぬ。そのお前が今出家を遂げてくれた。現世における私の望みはこれで全てかなえられた。人目には女と見えるだろうが、お前はきっと来世での仏弟子だ。いつもこの経文をお守りなさい」といって
極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽、若有重業障、無生浄土因、乗弥陀願力、必生安楽国。
― 極重悪人たる現世の衆生は、他に救われる道はなく、ただ弥陀の号名を唱える事によってのみ、極楽浄土に生まれ変われることが出来る。もし重い業障があって、浄土に生まれるべき善果もないとしても、阿弥陀仏のお力によって、必ず極楽浄土に生まれえよう。
「いつもこの経文をお忘れになるな。お互い顔を見せたり見申し上げたりすることも、今が最後だ。極楽浄土で、私がお待ち申そう。そもそも高野山は、弘法大師がお亡くなりになる時、弥勒菩薩が、代わりに現世の人々を救うために出現なさった浄土だ。だから高野山の麓にも、天野という霊地がある。お前の母がそこにいると聞いている。行って一緒に仏道を祈念なされよ」というと、娘の尼が泣く泣く言うには、「私は四歳で父に捨てられ、七歳で母にお別れ申し上げ、まるで人が死んで来世現世の中間に迷っているような状態で、他人を恐ろしいとばかり思って、夜を明かし日を暮らしてきました。だから幼い日から出家したい気持ちはありましたが、女の身とて、思うに任せぬことばかりでした。今嬉しいことに、出家を遂げられました。私に多くの財宝をお与えになっても、それはただかりそめの夢です。今の教化のお言葉や経典の大切な文章を、来世への道標として極楽浄土では父上と母上と三人でお会いしましょう」と言って泣く泣く別れて行ったのはあわれな事であった。西行は娘をはるかに見送って
九〇五 遁(のが)れなくつひに行くべき道をさは知らではいかが過ぐべかりける ― 遁れようもなく最後には誰もが必ずたどる死の道を、そうとは知らないでどうして、毎日を過ごしてよいのだろうか。お前にもそれを知ってほしかった。
三四九 月を見て心うかれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる ― 月を見て捨てたお前を思い出し、心乱れたかつての秋―。あの秋の夜がまたもめぐり来たかのような心乱れる今宵であることよ。と詠んだ。 ―続く