東海道は古代大化の改新以前から存在していたという説もあるが五畿七道の原型は天武天皇時代が成したとされている。当時の都、難波宮(大阪)、平城京(奈良)、平安京(京都)周辺を畿内五国(大和、山城、摂津、河内、和泉)、それ以外の地域をそれぞれ七道(東海道、東山道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)に区分した。それが五畿七道である。畿内から放射線状に伸び、経過する国の国府を順に結ぶ名称とされ、そこから各地域の国府・国衙の道が多く作られていた。平安期には入り、西海道に太宰府が設置され、独立した行政機関を有し、鎌倉期においては鎌倉に幕府が置かれ東国の行政機関を有し交通は活発化している。戦国期を経て、江戸期には江戸に幕府が置かれたため交通量の増加により交通路の整備・拡充が行われ、それまでの通行路の名称が変わったり新設されたりしている。
古代において都が遷都されるごと畿内の通じる東海道は変わっている。六世紀末から七世紀後半に大和国飛鳥に置かれた飛鳥の宮の時期には、大和国の宇陀が、東海道方面への入口だったと考えられている。飛鳥宮や平城京があった時代は三河国か尾張国の港で馬を他者に預け船により伊勢湾を横断する回路が多く用いられたとされ、伊勢国から鈴鹿峠を経由して大和国に入った。しかし、船には馬を同乗させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じ、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあったと(『日本書紀』大化二年(646)三月甲申条)記載されている。
難波宮においては美濃、近江、京都、摂津(難波宮)や尾張、伊勢、伊賀、大和、河内、摂津、もしくは大和、河内、和泉、摂津の経路がとられていた。奈良期において都が平城京(大和)へ遷されると、尾張、伊勢、伊賀、大和(平城京)の経路がとられる。また、平安京(山城)に遷されると、尾張、美濃、近江、山城(平安京)、もしくは尾張、伊勢、伊賀、大和、山城(平安京)の道があった。
古代から東海道は、多数の大河川の下流を渡り〈揖斐川・長良川・木曽川・大井川・安倍川・富士川・多摩川・利根川・大日川など)、降雨による水量の増加で渡河が容易ではなく、行程の日数を定める事が難しかった。また、東海道は常陸の国までとされていたようで、宝亀二年(771)までは武蔵国は東海道には属さず、相模国からは東京湾を渡って安芸国・上総国へ向かった(東京湾岸の多摩川・利根川・大日川は渡河しなかった)。十世紀以降に、渡河の仕組が整備され、東海道が活発になったと考えられている。また京都から東国に向かう東山道があり、順調に行くと東海道は東山道に比べ日程が短縮されるが、東山道に比べると必ずしも通行は容易ではなかった。東海道を行政区画ごとに分けると。伊賀国(現在の三重県の西部)。伊勢国(現在の三重県の西部と南部及び志摩半島部を除く全域)。志摩国(現在の三重県の志摩半島部と愛知県の渥美半島の間にある一部の島々)。尾張国(現在の愛知県の西部)。三河(現在の愛知県の中部と東部)。遠江国(現在の静岡県の西部)。駿河国(現在の静岡県の中部及び東部)。伊豆国(現在の伊豆半島及び伊豆諸島)。甲斐国(現在の山梨県)。相模国(現在の神奈川県の中部・西部)。武蔵国(現在の東京都と埼玉県、神奈川県東部の一部。宝亀二年までは東山道)。安房国(現在の千葉県の南部)。上総国(現在の千葉県の中部)。下総国(現在の東京都の隅田川東岸、千葉県の北部、埼玉県の中川東岸、茨城県の南西部)。常陸国(現在の茨城県)である。
平安時代中期を過ぎると、律令制の弛緩に伴い、国家の公的な交通に代わり、より現実的な必要に伴う交通が行われるようになったと考えられている。更級日記には、漢人四年(1020)秋に、著者菅原孝標女の父の上総国への赴任が終わり、東海道を通って京都に帰る道程が記されているが、そこには、濃尾平野北西部の墨俣と、東山道の要衝のはずの不破関を通過したと記されており、当時の事実上の交通状況が窺える。
鎌倉幕府の所在地鎌倉は、古い東海道の沿道上に所在しており、「武家の政庁所在地」鎌倉と、「朝廷・院の所在地」京都を結ぶ最も重要な街道となり、幕府は東海道ルートに駅制を敷き、京都 - 鎌倉間の通常の旅程を約十二- 十五日、早馬による緊急の通信は三・四日と定めた。ただし、古代律令時代に作られた駅路東海道とは違い、早馬による通信制度は道路構造の貧弱さと馬の長距離走行が適さない為に廃れ、幕府と朝廷間での急務を必要とされるものに限られていく。そして、人の脚力に依存する方向へと変っていったと考えられる。鎌倉中期に入り鎌倉の極楽寺坂切通と、京都粟田口を結ぶ街道は、単に鎌倉街道と呼ばれたり、海道と呼ばれたりしていた。また箱根路の箱根峠の整備が進み利用されている。
このころに東海道を旅した私人による日記文学が隆盛したのも、私人が宿泊可能な民営の旅宿が登場したことによるものであるが、この当時の旅宿は旅行者が携行する干飯(糒)などの食料を浸す温湯と簡素な寝具を提供するだけにとどまっていたとみられている。また、源実朝の御台所の女房・単語の局が、承元四年(1210)に旅の途中で盗賊にあったことから、鎌倉幕府により駿河以西の宿々に夜行番衆を置いて旅人の警護をするようになった。 ―続く