(極楽寺切通)
平成三年一月二十一日に鎌倉散策 要塞「鎌倉城」と切通を取り上げさせていただいた。鎌倉には鎌倉時代に鎌倉七口と言われる切通が整備され、鎌倉の西から極楽寺切通、大仏切通、化粧坂切通、亀ヶ谷坂切通、巨福呂坂切通、朝比奈切通、名越切通を紹介させて頂いる。それらの七口が何処に通じるかご紹介させて頂きたい。
(大仏切通)
古代の律令期においては東海道と東山道が東国に向かう道として知られ、各東国へ向かう道と各東国の国衙からの税として納める米や絹の輸送路として発展していった。
中世における鎌倉時代には幕府がが在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書かれており、鎌倉街道あるいは鎌倉道と呼ばれる道はかなり広範囲に数多くあったと考えられている。鎌倉街道は、律令時代の官道(五畿七道)に比べ、幅が不揃いで、曲がりが多く、複線の区間もあったとされ、。各地の国府、国衙、武士や寺社が鎌倉に向かう道を作った道を作ったたためと考えられる。
古道としての鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道として用いられている。建久三年(1192)、源頼朝が征夷大将軍になり鎌倉に幕府を開くと、支配力強化のために鎌倉を中心に東国の各地域を結ぶ新たな道路整備に力を注ぎ、次々と放射状に延びる道路網が建設された(浅井建爾『道と路がわかる辞典』日本実業出版社)。東国15カ国(遠江以東の東海道十国(遠江国、駿河国、伊豆国、甲斐国、相模国、武蔵国、安房国、上総国、下総国、常陸国)および信濃国以東の東山道五国(信濃国、上野国、下野国、陸奥国、出羽を指す)の御家人が番役として幕府に順番に奉仕するためにその範囲にわたる。また、律令体制下において支配が及ばなかった東北や蝦夷地まで道路網がかくちょうしている。西は北陸道の越中、東山道の飛騨、信州から東海道や東国を経て鎌倉に向かう道筋が存在しており、鎌倉街道あるいは鎌倉道と呼ばれる道はかなり広範囲に数多くあったとみられている。
しかし、現在、「鎌倉街道には上道・中道・下道という3つの主要道があった」とされることが多いが、これらの言葉の由来については不詳である。鎌倉街道という言葉は江戸時代の文化・文政年間に江戸幕府により編纂された江戸および周辺地の地誌に頻用されており、江戸時代に江戸周辺の住民が鎌倉街道と口伝する道があったことが分かっている。また、鎌倉街道だったと言い伝えられながら、鎌倉街道の他区間とつながらない道も多く存在したとされる。その理由として、江戸時代に道路整備が行われ、鎌倉詣等が行われる中、当時の通交案内書等で鎌倉街道という言葉が使われるようになり、地元の人々が、その道を鎌倉街道だったと言い伝えるようになったことが推測される。したがって、中世に用いられた名称が道路整備がなされた江戸期の名称と違っている。
中世の鎌倉時代に書かれた歴史書の『吾妻鏡』をはじめ、当時の諸文献には、「鎌倉街道」の呼び名は見られず、『吾妻鏡』で「鎌倉との往還道」という意味で用いられ、その道路名には以下のようなものがある。
1.京や駿河・遠江と鎌倉の間を繋ぐ東海道(さらに鎌倉より下総・常陸に向かう道も含まれる可能性もある)。 2.鎌倉から丸子川(多摩川下流)の渡しを通過し武蔵東部や霜のに向かう中路。
3.中路を経て奥州に向かう奥大道。
4.鎌倉から関戸の渡しを通過し武蔵西部や上州に向かう下道。
5.下道からさらに信濃・越後に向かう北陸道。
6.鎌倉と下野足利荘とを繋ぐ経路上の道である武蔵大路(経路不明ながら上記の下道および古代の東山道武蔵路と重なる)
(亀ヶ谷津切通)
鎌倉街道の呼び名が一般的に用いられるようになった江戸時代以降で、江戸時代の書物である『新編武蔵風土記稿』や『江戸各所図会』(江戸名所圖會)などに鎌倉街道が散見されている。これを、『吾妻鏡』の道路名に上道・中道・下道を現してみると。 上道は鎌倉から武蔵、上野の国府を通り、碓氷峠を越えて信濃へ行く道。中道は東海道をたどる京鎌倉往還、鎌倉から甲斐国を結ぶ道(御坂路:甲斐の国山梨の道を探して、甲州鎌倉道)。下道は下野のの国府を通って白川関を越える道や常陸の国府を通って奥州へ行く道などがあった。
(化粧坂切通)
軍事道路としての側面は、鎌倉時代初期に頼朝が、鎌倉から大軍を率いて奥州平泉の藤原氏を滅ぼした奥州合戦の際に使用されている。『吾妻鏡』文治五年七月十七日条、「東海道の大将千葉介常胤・八田右衛門の条知家はそれぞれ一族らと常陸・下総を…大手軍と合流せよ。北陸道の大将比企藤四郎能員・宇佐美平治実政等は下道を経て…越後から出羽国の念種関(ねずがせき)に出て合戦を告げよ。頼朝は大手軍として中路より下向される。先陣は畠山次郎重忠とする」。それ以外で幕府が実際に軍事目的で使用したという記録はほとんどない。
(朝比奈切通し)
鎌倉七口・切通が作られたのは三代執権北条泰時の時代が多く五代執権北条時頼の時代までと考え、極楽寺切通が忍性により造成されたと伝承があるが、極楽寺の伽藍形成時期などを検討すると既に時頼の時代までには造成されたと考える。幕府創生時は軍事目的が優先されたと考えるが、二代執権北条義時や泰時の時代には貨幣経済も浸透しつつあった。当時の鎌倉は五万人から十万人の人口があったと考えられ(石井進、河野信一郎1989年)。現在の行政区、鎌倉地区の人口が五万人であり、かなりの過密状態であったことが考えられる。そのため物資の運搬路が必要であり、貞永元年(1232)に泰時が勧進聖の往阿弥陀仏の進言により、八月九日に完成されている(『吾妻鏡』貞和元年八月九日条)。そして切通が巨福谷切通、朝比奈切通が、軍事目的を持ちつつ通商路として整備されたと考える。 しかし、中世成立期においての通商・軍事における幹線道の重要地点が常陸国において中世成立期における東海道と東山道の東の交わる地点として重要地点であった。また西の美濃にある青墓宿は東山道、東海道の交わる地点として重要地点であったと考える。そして元弘三年(1333年)の鎌倉幕府滅亡時、朝廷方の新田義貞が上道、(入間方面から府中・関戸を通り鎌倉へ向かう)を通って鎌倉に侵攻した時に逆に利用され、鎌倉七口の切通では激戦が繰り広げられた。
(志一稲荷周辺で巨福呂坂切通に通じていたが現在民家により通行できない)
『吾妻鏡』で「鎌倉との往還道」という意味で用いられている道路名には以下のようなものがある。各切通が江戸期に呼応された上道・中道・下道とつながっていた。、
・極楽寺切通は七口のうち最も海側に位置し、七里ヶ浜、腰越を経て東海道へ通じる道。
・大仏切通は梶原、山崎を経て藤沢に通じる道で、京都往還道として、武蔵の東山道へ、また駿河・遠江京と鎌倉の間を繋ぐ東海道である。
・化粧坂切通は鎌倉往還の「上道」に通じる道。武蔵(東京・埼玉)・上州(群馬)方面への旅人が通った道で、『吾妻鏡』には上道の記述は無く、江戸期以降の鎌倉街道上道は『吾妻鏡』に下道として記録されているものに近いとされる。
・亀ヶ谷坂切通・巨福呂坂切通は山ノ内(北鎌倉)を経由して、武蔵・上州方面へ通じる道で。「中道「」と呼ばれているのは、鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る古道で、『吾妻鏡』にある中路を基に造られた道であると考えられている。また、現在の横浜市川崎周辺で「下道」に別れている。
名越切通三浦半島へと通じる道で、朝夷奈切通は鎌倉期において現横浜の金沢地区から鎌倉に入る切通として開鑿(かいさく)されたが、本来は金沢・六浦から杉本城に至る金沢街道としての交通路であった。一部「下道」と交差するが、房総鎌倉道であり常陸・下総への交通路としても利用されている。
(名越切通)
中世の鎌倉期と江戸期の道が若干変わっているのは徳川幕府の江戸が東国の中心に変わり、江戸を中心に放射状に交通路が整備され東西交通量の増加と拡充していったためである。江戸期に入ると東海道は鎌倉を外れ、東山道が京都から江戸までに整備拡充され中山道と称される。また。江戸から奥州に向かう東山道は中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編されている。