京都東山御文庫文書の「足利直義願文」が「禁裏文書」として残されている事は、大変重要であり、「禁裏文書」であるが故、残ったとも考えられる。しかし、神護寺には残されていない。それは、神護寺がいかに荒廃と復興を繰り返してきたかを物語っており、主像名が分からなくなった絹本着色像を「伝源頼朝像」とし、徳川幕府の寄進及び寺格を保ったものと考えざるを得ない。
江戸時代においての神護寺の寺宝・霊宝の記録として慶應義塾大学図書館と国立公文書館内閣文庫に写本が残されている『神護寺霊宝目録』(明暦二年(1656)六月に奉行所宛に提出されている)である。江戸時代には、その中で「伝頼朝像」は「頼朝像御影」、「伝平重盛像」は「小松三位御影(平家物語の登場人物)、「伝藤原光能象」は「桜町中納言成範像」とされている。『神護寺略記』には「内大臣重盛卿」とは記載されず、「伝藤原光能象」に至っては桜町中納言成頼卿御影、桜町中納言成範御影と別人にされている。「伝頼朝像」は「頼朝像御影」とされ「右大将頼朝卿」とされていない。『神護寺略記』の正当性を疑うが、それについては今後の研究者がひも解くだろう。この神護寺の「伝頼朝像」足利直義像と考える中で尊氏と直義の関係を歴史的な背景を考慮しなければならない。この当時の歴史的背景を私なりに記載させて頂く。
足利尊氏と直義兄弟は後醍醐帝の建武新政に反旗を上げ、延元元年/建武三年(1337)十一月七日、建武式目を制定し室町幕府の施政方針を示した。同年十二月二十一日に後醍醐帝が吉野行宮に遷り南北朝期(明和の和約までの五十六年間)に入った。延元三年/暦応元年(1338)八月十一日に尊氏は征夷大将軍、直義は佐兵衛督に任じられる。室町幕府は尊氏と直義が二頭政治を行い、尊氏は恩賞授与や守護職の補任等、武士に対する主従制支配権を掌握し、直義は訴訟裁判権を基礎とした行政権、統治権的支配権を掌握し政務担当者として施政を行っている。
尊氏・直義兄弟の母は上杉頼重の娘清子であり、仲の良い一歳違いの兄弟であった。元弘三年(1333)の尊氏が鎌倉幕府に対し反旗を挙げ挙兵した事は憲房(清子の兄)の薦めによるものであったと『難太平記』に記されている。当然、挙兵についても直義の薦めもあったと考えられる。また、建武二年(1335)十二月十一日、中先代の乱を鎮圧し、鎌倉に留まり出家まで考えた尊氏を説得させたのが直義と上杉重能である。後醍醐帝に反旗をかざし、尊氏は直義・上杉重能がと出陣し、関東への入り口である東海道の箱根、東山道の足柄峠で足利軍は新田軍と激突し、勝利した。この頃からすでに直義は尊氏の補佐として行動を起こしている。
鎌倉中葉から上杉氏は鎌倉幕府時の北条家に次ぐ足利氏と婚姻関係を結び勢力を拡大していった氏族である。上杉憲顕の父憲房・祖父頼重は鎌倉末期から建武新政期にかけて、尊氏に忠節をつくしている。上杉憲顕は尊氏・直義の従弟関係にあたり、直義と上杉憲顕とは従弟で同年の生まれの為、建武の新政期の時から直義側におり、政治姿勢が似ていたとされ、心からの信頼関係が生まれていた。正平四年/貞和五年(1349)、上杉重能が突然の出仕停止を受けた後憲顕の計らい、直義の執事的存在として働いたと考えられ、後に一番引付頭人や内談方頭人として就くが、これは直義の計らいであったと考える。しかし、足利家の執事高師直は婆娑羅(伝統的秩序を無視し、実力で下からのし上がって来た者が豪華惇聯絢爛な衣装をまとい傍若無人な振る舞いをする事を言う)大名としての典型であり、高師直、師泰兄弟を対する批判は、その後公家や僧侶が批判するようになった。
この様な形態は鎌倉期における北条得宗家の得宗被官人と同様の結果を必然的に生む。直義は、婆娑羅(伝統・秩序を軽ん地て行動する武士等)を嫌い、そのことを考え、得宗被官と同様な結果も予測したと考えられる。幕府内での直義と高氏の対立は高まっていくが、外戚関係の上杉と足利家執事の高氏の対立が内包されていた。そして、それは直義と尊氏との関係の対立を生む結果となる。 ―続く