鎌倉散策 熊野神社(浄明寺) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 浄妙寺の山門を左に二十メートルほど行くと山腹を回り込むような坂道を登って行くと、熊野神社に通じる階段がある。鬱蒼とした木々の中を長い階段を登って行くと鳥居が見え:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天宇順女神(あめのうずめのみかみ)が祀られている熊野神社の社殿にたどり着く。浄妙寺の鎮守とされる社殿である。冬場は山腹には平場が多く作られていた事が窺えられ、杉本城の一角と考えられている。 勧請の年は定かではないが、応永年間(1394~1428))と永正年間(1504~1521)に社殿の再建があったことが伝わっている。文久三年(1863)の再建時の棟札や嘉永七年(1873)の社号扁額などが保存されており、明治六年(1873)には浄明寺区の鎮守として「村社」に列格された。

祭神:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天宇順女神(あめのうずめのみかみ)。 例祭七月十七日に近い休日。神徳:子孫繁栄。 

 

 「古事記」「日本書紀」で伊弉諾尊と伊弉冉尊は誰もが知っている大八島の国を生み、伊弉冉は火の神である火之迦具土神(ひのかぐゆちのかみ)を生んで女陰が焼かれ亡くなった。伊弉諾尊は伊弉冉尊に会いたく黄泉の国を訪れたが、変わり果てた伊弉冉尊の姿を見て恐れ、逃げ出した。その後を伊弉諾尊は追って来る伊弉冉尊を黄泉比良坂で巨大な千引岩で塞ぎ現世に戻る事が出来た。その穢れを清めるため禊が行われ、次々と神が生まれていき、左の眼を洗うと天照大神が、右の眼を洗うと月読命が、鼻を洗うと素戔嗚尊が誕生したとされる。天宇順女神は天照大三上が岩戸に隠れ世界が暗闇になった時に他の神々が困り天宇順女神にエロティックな舞を躍らせ、神々は大いに笑った。その笑いに誘われ大岩を少し開けた。そこに天手力神が天照大神を引き出し、再び夜が明るくなったとされる。天宇順女神の神格(神徳)は芸能・神事である。

 この話を紹介させて頂いたのは、伊弉冉尊、伊弉冉尊を主祭神とするのは自凝島神社(おのころしまじんじゃ:兵庫県南あわじ市)、伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう:兵庫県淡路市)、多賀神社(多賀神社:滋賀県犬神郡多賀町)、江田神社(えだじんじゃ:宮崎県宮崎市)が有名であるが、多くはない。

  

 鎌倉では熊野新宮と、熊野神社(大船)(手広)そして(浄妙寺)の四社がある。主祭神は熊野新宮では日本武命、速玉男命、素戔嗚命、建御名方尊。熊野神社(大船)は日本尊命。熊野神社(手広)は伊弉冉命、事解男神、速玉男神。熊野神社(浄妙寺)は伊弉諾尊、伊弉冉尊、天宇順女神である。熊野神社と称される社殿は全国におよそ三千を超える社があり、その本源は和歌山県の紀伊国、熊野三山であり、熊野本宮大社(主祭神、家津美御子大神:すさのおのみこと、)熊野速玉大社(主祭神、熊野速玉大神と熊野夫須美大神)、熊野那智大社(主祭神、熊野夫須美大神)である。勧請を受けた社殿であるなら、鎌倉の熊野新宮、熊野神社(てびろ)以外は主祭神が違うのである。しかし、熊野神社(手広)と熊野神社(浄妙寺)は伊弉冉を主祭神とされている。広島県庄原市に比婆山熊野神社がるが、以前は比婆山神社とされていたが、嘉祥元年(848)に社号を熊野神社に改称したと言う。本来比婆山熊野神社は比婆山の奥の宮を遙拝するための物であったと言われ、比婆山は伊弉冉が亡くなり葬られた地が比婆山と伝えられている。八百万の神の国、異なる事は多いが、伊弉冉を祀る熊野神社には何らかの理由があるのだろう。

 

 神社名により主祭神がほぼわかり、八幡社は応仁天皇、神功皇后、仲哀天皇。八坂・八雲社は素戔嗚尊、速玉之男命。稲荷社は宇迦御魂命(倉稲御神:うかのみたまのかみ)、大己貴命(おおなむちのみこと)豊受大神。天神・北野・天満宮は菅原道真、素戔嗚尊。神明宮は天照大神。諏訪神社は建名方神。住吉神社は住吉三身である底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、表筒男命(うわつつおのみこと)、そして息長帯姫命(神功皇后)を含める事もある。浅間社は木花之咲夜毘売命、大山津見神。御霊社は霊を鎮め祀る為、その地により違う。神社名がその地域名がつけられた場合、主祭神でどのような社に属するのか、また地域により区別されることもある。出雲地方の出雲社は大国主命、素戔嗚尊が多く、大阪の堺市から関東地方の直線上に日本武尊を主祭神とする社が多く分布する。

 

 熊野神社(浄明寺)の社の東側には足利尊氏の弟直義の屋敷があったと言われる、後に同地に直義の菩提所とされる禅宗寺院の大休寺が建立された。直義の戒名は大休寺古山恵源とされ大休寺殿と号した。しかしいつ廃寺になったのかは不明であり、浄妙寺奥の左手山崖にやぐらがあり、そこに直義の墓とされている。また『相模風土記』には「熊野神社、泉水ヶ谷字東之沢宝生庵の東に在り」と記載されている。しかし泉水ヶ谷は現在では泉水橋の名が残り、浄明寺バス停よりも東に五百メートルほどの地にあり、十二所近くであり不思議に考える。浄妙寺、報国寺に来られた際は、熊野神社や鎌足稲荷も周られたらと思う。

 

住所:鎌倉市浄妙寺六十四。交通:鎌倉駅東口より大刀洗行バスにて浄妙寺下車徒歩五分。