玉縄ふるさと館と旧石井邸は、鎌倉市玉縄の玉縄北条氏の菩提寺である龍宝寺境内に置かれている。玉縄ふるさと館と旧石井邸の説明は玉縄城址まちづくり会議の玉縄城歴史散策のすすめを引用させて頂く。
玉縄ふるさと館(玉縄歴史館)は地元住民の人達が昔の生活を後世に伝えるため農機具や生活道具を寄贈し、玉縄周辺の遺跡で発掘された遺物も併せて歴史民俗博物館として建てられた。近年、リニューアルされ「玉縄ふるさと館」と名称を変えられた。一階の展示物は玉縄の地に玉縄城の地形的構造を示す模型が飾られ、難攻不落の城の形態を見る事が出来る。また中世に造られた各地の山城や有名な城の絵画が二十点ほどと鎧一つが展示されており、玉縄城を知るにはまずここを訪れる事をお薦めされている。
旧石井邸は三百年ほど前の建物で国の重要文化財に指定された古民家である。鎌倉から甲州に向かう関谷の街道沿いに地侍の子孫として石井家が住んだ屋敷であり、江戸期においては当地の名主であった。昭和四十年代に先祖代々から受け継がれた家を建て替える事になり龍宝寺住職がこれを惜しみ、寄贈され境内に移築保存された。
今回訪れたのは、「重文古民家ひな人形の設え」が玉縄歴史館の旧石井邸で行われていり、古民家で、豪華ながらもかわいらしい、ひな飾りが展示を見に来た。位古民家に入ると土間、囲炉裏場「ひろま」、畳墓部屋「へや」と納戸様な個室「でい」があり、江戸中期の元禄時代の建立とされる。畳部屋に大小二組の雛段が飾られ、羽子板等、桃の節句に因むものが展示されていた。雰囲気は良かったが、もう少し様々な雛段が多数あればもっと華やぐと思われる。私の実家にも姉のお雛様があり、私の家にも娘のお雛様がある。やがて処分しなくてはいけない時期に来るだろう。何処の家庭にも処分に困る場合があり、それらを引き取られてはと考える。四月一日からは端午の節句飾りに変更されるらしい。鎌倉市植木一二八龍宝寺境内、玉縄歴史観、電話0467-45-7411、拝観料大人二百円、子供百円で、二度目の訪問であるが何時も無人の為拝観料は料金箱に入れる。
龍宝寺については鎌倉散策で令和二年六月に配信させて頂いており、要点を紹介させて頂くと龍宝寺は鎌倉市にある曹洞宗寺院の中で一番古い代表的な寺院である。寺伝によると玉縄城城主の北条綱成(つなしげ)が安土桃山時代末期の文亀三年(1503)に建立した瑞光院が始まりとされる寺院であり、開山は泰絮宗栄(たいじょそうえい)禅師と伝えられている。天正三年(1575)に綱成の孫玉縄城城主北条氏勝によって現在地に移された。龍宝寺の名は氏勝の父の玉縄城三代城主氏繁の戒名「龍宝寺殿大応栄公大居士」から取られ山号寺号が陽谷山龍宝寺とされ、玉縄北条氏の菩提寺として繁栄した。
宗派:曹洞宗。山号寺号:陽谷山龍宝寺。創建:文亀三年(1503)。開山:泰絮宗栄禅師。開基:北条綱成。本尊:宝冠釈迦如来。寺宝:木造宝冠釈迦如来坐像他。
本堂の宝冠釈迦如来像と脇侍の文殊菩薩・普賢菩薩が祀られ、歴代玉縄城主と源実朝の位牌が安置されている。創建当初は広大な寺領を持ったとされるが、天正十八年(1590)に豊臣秀吉による小田原征伐が始まり、玉縄城包囲戦況が悪化、この戦いに参戦していた徳川家康が玉縄城包囲したが当時の龍宝寺住職を通じて氏勝を説得させ開城したと言う。後に氏勝は家康の家臣として仕え下総国岩富藩一万石の大名となっている。また伝承として、この場所は鎌倉時代、鎌倉幕府三代将軍源実朝を暗殺した公暁の七人の部下が実朝の首を隠した場所とも言われている
寺院の境内も広く金比羅道から墓所に至る道沿いには江戸期の宝篋印塔等の石碑が三十メートルほど並んでいる。各季節美しい花が咲き、隠れた名所と思える。大船から玉泉寺、龍宝寺(玉縄ふるさと館)、諏訪神社、玉縄城址の七曲殿、太鼓櫓跡、ふあん坂等の散策を兼ねて訪れるのも良いと思う。