鎌倉散策 足利直義、九「薩捶山の合戦」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:鎌倉浄妙寺奥のやぐら群、足利直義の墓)

 尊氏と直義の対決が避けられない状態になった。この間に尊氏は自派の武将に前回の戦に対しての恩賞等を優先的に行い、また直義派の武将に対し自派へ取り込むための懐柔等を行っている。直義派の細川顕氏は謁見に尊氏を訪れた際に太刀で脅し自派の取り組みを図っている。また、直義には二頭政治において軍功に対する恩賞の裁断権が無かった為、武将が離れていったとされる。

 直義は尊氏と義詮の策略を知り、七月十三日に越前の足利庶流である斯波高経の越前に向かった。『太平記』第三十巻七、江州八相山合戦の事において、八月十八日に尊氏は直義追討の宣旨を賜り、近江の国鏡に九月七日に佐々木導誉、二木義長、土岐頼康と共に陣を張る。直義は近江国へ打ち出て、石堂、畠山、桃井の三人を大将とし、八相山に陣を取った。互いに強固に守りを固めたが、翌日直義方の佐々木導誉の家来の多賀将監と桃井配下の秋山光正が軽はずみな合戦を始め、たちまち光正討たれてしまい、桃井は継続して合戦を主張したが、結局越前に引き返したとされる。十月八日には越前を発ち、尊氏は東山道の信濃守護小笠原正長に捕縛あるいは誅殺の命を出している。しかし、直義は東山道を通らず、十一月十五日には鎌倉に入った。鎌倉では、直義の猶子であった鎌倉公方の基氏(当時十二歳)が尊氏と直義の和解を斡旋するが、直義が拒否したため基氏は伊豆に隠遁してしまった。

 

 直義追討の綸旨を再び受けた尊氏は、十一月十四日に京都を発ち、途中奥州の結城朝常に対して軍勢を催促し、また各地へも軍勢の動員をかけつつ進軍した『南北朝遺文』関東編第三巻、二一二三号には、十一月二十三日尊氏方の今川範氏の下に直義方の上杉能憲が駿河に攻め入るという知らせが入り範氏は伊達景宗らを率い布陣した。十二月十一日に駿河国蒲原で今川範氏・小笠原正長らが上杉能憲を破り勝利した。尊氏は十一月二十六日に掛川に到着、十二月三日に手越宿に到着し、同十三日に駿河国由比越(現静岡県清水区)で待つ今川範氏と合流し、由比越の北に位置する桜野に本陣を布陣した。『太平記』三十巻、十薩捶山(さったやま)合戦の事に「十一月晦日駿河薩捶山に打ちあがり」とあるが『駿河伊達氏文書』また『足利尊氏御判後教書』等により薩埵山の合戦場所と合戦日時は間違いであったとされ、戦いのあった場所から桜野の戦いとも言われている。

 

(写真:鎌倉浄妙寺)

 『太平記』において薩埵山の合戦は、尊氏方は二木頼章・畠山国清(兄弟)・今川範国・今川貞世・武田信武・千葉氏綱・長井兄弟・二階堂行とも党が参陣、計三千騎であったと記載されている。前回の近江の八相山の合戦では、佐々木導誉、二木義長、土岐頼康で一万騎とされている事から、より遠い駿河の土地で三千騎のとは矛盾が生じる。軍記物語『太平記』が経緯を見ることは出来るが、日時や数量に関し間違いや過大に表記されている面がある事が窺える。

 尊氏は薩埵山の合戦で宇都宮氏綱の参陣を待つところであった。直義は、この知らせを聞き尊氏と合流を目指す宇都宮氏綱を討つため桃井直常・長尾景忠ら一万騎を向かわせた。直義も自ら十万騎の兵を率い鎌倉を発ったときされ、直義方上杉憲顕が由比蒲原へ向かい、石房義房・頼房親子が内房へそれぞれ十万騎ずつ向かわせている。しかし、宇都宮氏綱勢は石房義房・頼房親子を破り、駿河国内で初戦を行おうとする尊氏本陣を目指し、後詰めとして駿河国に入った。東国での合戦は直義に有利であるが、やはり尊氏方が三千騎と言う事は有りえない。

 

(写真:鎌倉浄妙寺)

 尊氏は陣の張った櫻野の近くの内房に由比蒲原で戦功のあった小笠原正長に来るよう命じており、戦略的な配置であったと考える。そして、十二月二十七日に直義方の石塔義房・頼房親子が尊氏勢に攻め入り伊達景宗と戦ったが結果、尊氏方が勝利した。伊豆国府にいた直義に向かい箱根・竹之下に陣を張る。勢いに乗る尊氏方は上杉勢と交戦するが、上杉憲顕、長尾景康は信濃国に落ちて行った。同二十九日には浮足立った直義方は敗走し直義は伊豆山中に逃れたとされる。

  

(写真:鎌倉鶴岡八幡宮)

 正平七年/観応三年一月五日には鎌倉に追い込まれた直義は尊氏と講和を行い降伏した。その後、浄妙寺の横にあったとされる円福寺(廃寺となる)に幽閉され二月二十六日に急死している。高師直・師泰・師世が武庫川湖畔で上杉能憲により誅殺された一年後であり、実子如意丸の一周忌の翌日であった。享年四十一歳であった。そして『太平記』三十巻十一、恵源禅門逝去の事において黄疸による病没とされるが、「実は鴆(:日本ではヒ素等を指し鴆毒と呼ぶ)に犯されて、逝去し給ひけるとぞささやきける」と風評により尊氏の毒殺説とも取れる記載がされおり、死因については定かではない。直義の死により観応の擾乱は終わるが、直義の養子直冬が幕分対して抵抗を続ける。

―続く