鎌倉散策 建武の新政 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 元弘三年(1333)閏二月、後醍醐帝は隠岐島を脱出した。五月二十二日、新田義貞の鎌倉攻めにより、北条氏が滅亡すると伯耆国船上山にて五月二十五日に笠置山遷幸中幕府の要請により即位した光厳天皇を否定・廃止し、六月五日に帰京を果たした。これにより倒幕運動は達成・終結される。

 

 帰京後の六月十三日に護良親王を征夷大将軍に任じ、十五日には「綸旨を帯びざれば、自由の妨げを致す莫(な)かれ」との宣旨を発給する。これは綸旨により所領の安堵を個別に行う。または後醍醐帝が隠岐島配流中に護良親王が令旨の発給を多発していたため、停止を目指した物かは意見が分かれる。後に後醍醐帝は足利尊氏と護良親王との対立に対し護良を鎌倉に配流している。

 七月十七日に「新政」を開始し、建武元年に成立した建武政権の新政策である事から、元号により呼称される。また、「建武の中興」とも呼ばれる。ここで足利高氏は後醍醐天皇から諱(いみな)を与えられ「尊氏」と改められ鎮守府将軍に任命された。広義には南北朝期は含まれるが室町期を含んでいない。

【建武政権の組織図】

    |―太政官

    |―八省

  中 |―諸官司

    |

  央 | |―記録書

    | |―雑訴決断所

    | |―恩賞方

天皇――|―|―武者所

    | |―窪所

    |

    | |―奥州鎮守府

  地 |―|

    | |―鎌倉将軍府

  方 |

    | |―国司

    |―|

      |―守護

 

 建武の新政は後醍醐天皇が嫡流として認めさせるための善政・徳政を行う事であり、従来の政治形式を武士から天皇の専制政治をもたらす事であった。六月中に政務の中枢を担う記録所、恩賞方が設置された。恩賞方は倒幕運動に従軍した軍忠の審議判定が難しく翌年には拡充している。記録書は後三条天皇が設置した記録荘園券契所を復活させ荘園領主(寺社権門)が当事者となる訴訟の処理にあたる部所であった。九月に拡充された雑訴決断所は所領訴訟を対応。武者所は京都の治安を守る部所であった。太政官・八省は二官の太、政官と神祇官と中務、式部、治部、民部、刑部、兵部、大蔵、宮内の発生を管轄する。窪所は建武の新政において作られた部所であるが内容は不明であるが、門注所の様な民事訴訟や訴状受理の部所ではないかと考えられている。

 

 建武の新政での政治改革として特に国司制度の改革である。特定の貴族・家に世襲されていた官職を廃止、能力のある下級貴族からの登用も行っている。そして、八省の中央官司の改革を行っている。本来太政官司の下部組織におかれていた八省が並列して位置付けられた。律令以来の官位相当制によれば太政官職の左大臣、右大臣が一位で大納言が三位とされ、三位以上が上空級卿であり四位相当の職であった。新制により、八省には三位の上級公卿や大納言以上の経歴者が登用され、従来の官位相当制に反する人事を行っている。また同時に、地方行政を司る国司においても慣例を打破し特定の家が代々同じ国から利益を得る知行制を見直し、建武政権は任期を考慮しない人事が可能な完全に国司任免権を掌握したことになる。後醍醐帝の忠臣の武士の登用や能力のある武士の登用も行い、武士を中心に守護を任じ治安維持にあたらせた。が、国司との紛争も多く生じる事となった。

 

 特に建武の新政で武士達に不満をもたらした大きな要因は、旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令等が発布された事である。この発布は従来の土地所有は一旦無効とされ、新たな土地所有権や訴訟の新政において天皇の裁断である論旨が必要とされるものであった。この発布により土地訴訟権の認可を求める者が京都に殺到した。対応できなくなった後醍醐天皇は翌七月に諸国平均安堵令を出して朝敵を北条一族のみと定めて、知行安堵を諸国の国司に任せた。しかし、貴族や鎌倉幕府を倒した武士の恩賞問題、人事問題が交差し、武士たちの不満が続出し、九・月に拡充された雑訴決断所で所領訴訟を対応している。

 

 地方行政においては後醍醐帝の皇子を鎮守府将軍とし、奉行させ、治安回復を行った。奥州では義良親王を奥州鎮守府に奉じさせて北畠顕家(後に奥州鎮守府将軍)を国司に父親房と奥州に、鎌倉将軍府には成良親王が就き足利尊氏の弟直義が補佐の為に下向している。後醍醐天皇の権威と治安を保つ軍事力の基盤が整わず、護良親王は足利尊氏を牽制し続け、後醍醐天皇と護良親王との軋轢が生じる。建武元年(1334)十一月、護良親王鎌倉へ配流され、十二月足利尊氏の弟直義が成良親王を奉じ鎌倉に下向する。建武二年七月に北条時行が北条家残党を率い鎌倉占領したのが中先代の乱である。足利直義は護良親王を殺害して鎌倉を脱出した。鎌倉の二階堂川の理智光寺橋を渡ると護良親王墓がある。八月二日、足利尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、独断で軍勢を率いて鎌倉に向かい直義と合流し相模川の戦いで時行を倒し、鎌倉を奪還した。

 

 中先代の乱後、後醍醐天皇と足利尊氏との対立が始まり、尊氏の離反により建武三年(1336)十月十日、建武の乱にて足利尊氏に敗れ後醍醐天皇の建武政権は僅か二年で崩壊し、十一月、暦応元年、足利尊氏は征夷大将軍になり尊氏の「建武式目」を定め室町幕府が成立した。室町幕府は鎌倉幕府を継承した物であり、公家及び武士の期待に応えるものではなかった。そして五十七年間の南北朝時代に移行し、三代将軍足利義満の時代にまで騒乱は続く。

 

 暦応二年(1339)八月十五日、後醍醐天皇は吉野で皇太子にした義良親王に皇位を譲り、翌日崩御された。その中でも奥州鎮守府将軍になった北畠顕家の活躍は目を見張るものがある。東国・西国の武士たちは武士を束ねる棟梁を待ち望んでいた。