「極楽寺坂切通」は、今は中世の様相を無くし、国道百三十四号と並行するように削り取られ、長谷、極楽寺、稲村ケ崎を通る道として利用されている。国道百三四号は昭和三十年(1955)に開通されているが、この「極楽寺坂切通」が何時この様になったか調べ切れなかった。 鎌倉幕府設立される以前は、七里ヶ浜から鎌倉に入るには稲村ケ崎先端を通る「稲村路」を通っていた。『吾妻鏡』には建長四年(1252)に宗尊親王が鎌倉に入る際「稲村路」を通ったと記載されている。「稲村路」は危険な道として『街道記』には、その様相が「険しい岩が重なり横たわる狭い間を伝わり進むと、岩に当たって打ち上げる波が花の様にちりかかる」と記載されている。その後、極楽寺の開山忍性により行き交う人が安全に通る事が出来るよう、「極楽寺坂切通」が切り開かれたとされるが、その時期に至っては不明である。その後、鎌倉から西に向かう際に「極楽寺坂切通」を起点とし、腰越、片瀬を抜け東海道に入る事が出来るようになった。
元弘三年(1333)、後醍醐天皇の綸旨を得て倒幕に向かった新田義貞は上野国から鎌倉街道を通り藤沢、片瀬、腰越にたどり着く。五月十八日から鎌倉七口で攻防戦が繰り広げられ、特にこの「極楽寺坂切通」の攻防戦が激しく、大仏貞直に甲斐・信濃・伊豆・駿河の軍勢を添えて守りに付いた北条軍の奮戦も有り、「極楽寺坂切通」が難攻不落の為に二十二日未明、義貞が稲村ケ崎の先端を突破した。由比ヶ浜で北条軍と最後の激戦を行い、北条氏を滅亡させた。
「極楽寺坂切通」は季節に応じて散策できるが、上り坂なので夏場は暑さと蝉の鳴き声に苦労する。やはり春と秋が良いだろう。長谷から御霊神社、力餅家を通り「極楽寺坂切通」に向かう。鎌倉十井の一つ星の井を過ぎると虚空蔵堂があり、こちらの虚空蔵菩薩は奈良時代に行基が彫り、祀ったとされる。鎌倉時代には源頼朝により秘仏とされ三十五年に一度だけ開帳されたが、現在毎年一・五・九月十三日に開帳される。
道沿いに日限六地蔵尊が佇まれておられる。案内文には「当地蔵尊は道行く人々をお守り下さり、お地蔵様に眼のとどく範囲で事故が起きても大事にはいたらないと云われ、また善男・善女が邪心を捨て心清くもち願い事を期日を極めておすがりすれば、その期日までに徳がいただける有難いお地蔵様であるとして、いつの世にか日限地蔵と稱されるようになったと伝えられております 日限地蔵尊護持会」。
そして成就院、伝上杉憲方墓、導き地蔵、極楽寺と続く。周辺には日本百駅に選ばれた江ノ電極楽寺駅はさまざまなドラマや映画で使われてきた可愛い駅である。また、熊野新宮、月影地蔵、月影谷阿仏尼邸跡、針磨橋等があり、極楽寺は令和二年二月五日に鎌倉散策にて紹介させて頂いており、次週に成就院、熊野新宮、月影地蔵、月影谷阿仏尼邸跡を紹介させて頂く。鎌倉の秋は突然訪れ十二月の中旬ぐらいまで続く。秋の散策には良い道であると思う。