「司馬遼太郎について「」 一
九月から鎌倉に関する書籍を紹介させて頂き、今回四回目になる。エッセイ、歴史書、鎌倉ガイド等を始めに今後は小説などもご紹介させて頂きたいが、今回は司馬遼太郎の「街道をゆく42三浦半島記」を紹介させて頂い頂いた。大好きだった司馬遼太郎を「wikipedia司馬遼太郎」を参考に、自分なりのまとめさせて頂く。
もう皆さんもご存じだと思うが、大阪市の現在の浪速区塩草で調剤薬局の次男として大正十二年(1923)生まれている。兄は二歳で早世し、姉と妹がいた。塩草は、今では串カツが有名な恵美須町の新世界にも、難波にも近く下町の庶民的な町である。明治期ぐらいまで海岸線があったと言い、その後、西へ埋め立てられ工場地帯として拡張していった。本名福田貞一、筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)およばざる日本の者(故に太郎)」からきている。
(写真:奈良県、當麻寺)
彼は乳児脚気の為に三歳まで奈良県葛城郡當麻町(現、葛城市)の母の実家で里子に出されている。小学校は塩草尋常小学校に入学。性格は明るいが、学校嫌いで勉強ができる子ではなかったらしく、むしろ悪童と言った部類だったらしい。母親の実家の近くには當麻寺、二上山が近くにあり、古墳も多い場所であった。土器のかけらや石鏃(せきぞく:石で作られた矢尻)等を拾い集めていたという。しかし浄土宗系の天王寺区にある私立上宮中学(戦後、と改名した男子私立高校、併設の中学は昭和四十七年に廃校となる。現在は男女共学の上宮学園中学校・上宮高等学校となり、出身者に野球の巨人軍コーチ元木大介等がいる)に進学、そして読書に明け暮れたという。朝鮮、中国の史書や監視にも興味を持ち、馬賊に憧れたという。私が中学に進学する際、入学検討校の一つで、廃校の為その選択肢が無くなった。彼は家庭の事情で官立の学校の進学しか許されず、昭和十五年(1940)に旧制大阪高校、翌年旧制弘前高校を受験するが不合格。昭和十七年、当時天王寺区にあった旧制大阪外国語学校、蒙古語学科を卒業。(戦後、大阪外国語大学となり、平成十九年(2007)十月一日に国立大学法人大阪大学と統合した)母校の名前が無くなることは、そこで学んだ自身の存在が無くなるようで非常に悲しく、惜しまれる。大阪の天王寺区は東京の文京区の様な地区で、跡地は清閑な場所で国際交流センターとして各国の学生等との支援や交流を目的とした施設に変わっている。
(写真:司馬遼太郎の風景より転用)
彼は学徒出陣により大学を仮卒業となり、現在の兵庫県小野市の青野が原戦車第十九連隊に入隊。翌昭和十九年満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し十二月に牡丹江の久留米戦車第一連隊の小隊長として配属される。日本軍の戦車は装甲が薄く、砲弾の威力も弱く、速度も遅く、ほとんどが軽戦車、中戦車であり、ソ連の戦車と比較すると雲泥の差であった。司馬は、この地で戦闘がおこれば必ず死ぬと悟ったと言われている。しかし翌四十五年に本土決戦の為、栃木県佐野市に移り、幸いにも陸軍少尉として終戦を迎えた。
復員後、彼は「こういう馬鹿な事をやる国は何なのだろうかという事が、日本とは何か日本人とは何か、と言う事の最初の疑問となりました(「昭和という国家1998十頁」)」「なんとくだらない事をしてきた国に生まれたのか」自問自答するように日本人とは如何なる者かを考え図書館へと通う。そして在日系朝鮮人経営の新世界新聞社に入社、昭和二十一年に新日本新聞社に移るが二年後倒産し、産経新聞に外大卒と言う事で英語が話せるだろうと思われ入社、司馬は英語を話せなかった。昭和二十三年の福井地震、歌人川田順失踪事件、金閣寺放火事件の記事を書きながら、京都大学を担当し京都学派の学者の取材を行いながら後の歴史小説やエッセイを書く上に必要な出会いがあったとされる。昭和三十年(1955)『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表「ペルシャの幻術師」が司馬遼太郎として第八回講談倶楽部賞を受賞海音寺潮五郎が絶賛した。その後作品をいくつか執筆し昭和三十五年(1960)『梟の城』が第四十二回直木賞を受賞し翌年産経新聞を退社し、小説家として数多くの作品が生まれた。
私も高校生になり父の影響もあり司馬遼太郎を乱読した。ほとんどの作品は読んだが、その中でも『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『新撰組血風』『峠』『花神』『坂の上の雲『「菜の花の沖『「国盗り物語」『空海の風景』が好きで何度か読み返した。しかしエッセイの『司馬遼太郎の風景』や『この国のかたち』も司馬遼太郎を知る上でおもしろい。『街道をゆく』は興味のある巻は読んだが、すべてを読んだわけではない。しかし私が思うには、彼の作品は、この日本での分岐点となる時代において、戦国時代、幕末、そして日露戦争を描くが、太平洋戦争については一切書こうとしなかった。しかし晩年ノモンハン事件について書こうとし取材活動を行っていたとも言われる。多くの資料を参考に彼自身の日本人のかたちを有する人物に焦点を当て読者がのめり込んでしまう作品に仕上げてしまう。それは、その主人公が何時も良き時代になるように夢を描き、読者に夢を与えるからである。従って彼は日露戦争以降、日本を腐敗させた軍部に対しての事は書かなかったし、書けなかったと思う。しかし、読者は彼の描いた壮大な物語が歴史として認識してしまい、小説であることを忘れてしまい、全てが真実の如く捉えてしまうのである。 ―続く