「文永の役」
高麗王元宗が1272年に死去し、元宗の子が忠烈王として王位に就いた。文永・弘安の役でクビライに日本進攻を進言し、兵力及び軍船、兵糧の経費負担を提供する。また毎年元に対し膨大な貢物等を送り、高麗国内を疲弊に追い込んだ。
文永十一年(1274)十月三日、クビライの命を受け元軍二万五千、高麗軍八千、合わせて三万三千(資料により、また研究者により、その兵員数は異なる)の兵と九百艘の兵船が朝鮮半島南端の合浦から出撃した。その二日後、同五日、対馬に現れ、その日の夜六時ごろ地頭宗国助の下に対馬西岸の左須浦に異国船数百隻が着岸したと言う急報が入り、助国は国府から須佐浦へ八十騎で駆けつけたとされる。左須浦に到着したのは夜中の二時頃であったとされ、夜が明けると通訳の真継男(まつぎのおとこ)を遣って子細を聞こうとしたが元兵は船から散々の矢を射かけ、一斉に上陸してきた。助国は急ぎ陣形を整えて元兵数十人を討ち激戦を行ったが、敵兵が大人数の為、ここで討ち死にを遂げた。元軍は小茂田の山間まで進行し、住民の住居棟を焼き払っている。この知らせを宗国助の郎等故太郎と兵衛次郎百二十キロ先の博多に知らせている。
同十四日、壱岐島西岸に襲来。守護代平内経隆と御家人百余人は庄三郎の城近くで戦いを始めるが元軍四百の兵に対し、かさんに攻撃を繰り返したが常隆は白内に追いかこまれ、そこで自害した。元軍本体は肥前松浦方面に向かい松浦党の武士数百名を討つか捕虜にしたとされる(日蓮画賛)。同十九日に壱岐と松浦を蹂躙した元軍は平戸・鷹島を襲い博多湾に侵入し、翌二十日、湾の西部の百道原(ももじばる)、今津、麁原(そはら)、湾正面の筥崎に上陸を開始した。麁原、赤坂、博多、筥崎では元軍の兵と武士との激戦が行われ、武士の配置が決められていたことが推測される。この間に九州の国々からの御家人が博多湾岸に続々と集結していたとされ、文永八年(1271)九月十三日に幕府が出した防備の対策がある程度進められていた事が窺える。しかし文永の役で日本の兵力は不明であり、『元史』では十万と記載されているが、おおよそ八百から千騎程度と考える。『蒙古襲来』(黒田俊雄著、中央公論社1973)では、「軍勢の数は一万を超えなかったであろう」と考えられている。当初の軍勢が御家人中心であり、その一部郎等を入れても数千任程度であったかもしれない。鎮西奉行少弐資能、経資、大友頼康らは激戦を繰り返し、『蒙古襲来絵詞』に肥後国(現熊本県)の御家人竹崎季長の活躍を中心に描かれていが、季長自身が元の弓により傷を負い、馬も射られ落馬し、討ち死にしそうになるが援軍に助けられている。日本の軍制形態が家単位の御家人で兵力は二騎から五騎、郎従・郎等を含め五から十名単位であった。整然と陣形を守る蒙古軍に武士たちは苦境に立たされる。戦略拠点の一つ麁原山を奪われ、博多、筥崎宮を焼き払われた幕府御家人は太宰府に撤退、水城に逃げ込んだ。『八幡宮愚童訓』に「夜が明ければ、敵は九州に満ちて、我々は根絶や死に討ち滅ぼすだろう、と一晩中嘆くばかりだった」と記載されている。
蒙古軍は国家単位で招集された兵。一つの戦線・戦域で集団として陣形を取り攻撃する。中世の日本の武士は国家形態をなす軍ではなく、家独自の戦闘形式で鎮西、九州地方の有力御家人の少弐氏、安達氏以外は家単為の主人、郎従、郎等の五名から十名くらいの戦力。郎等は歩兵及び戦備品の運搬者として農民が多く軍人としては機能しなかったようである。また戦い方にも違いがあり、日本の武士は、名を発し先陣・死傷において武功を得、勝敗は二の次である。また、日本の大鎧は重さ三十キロを超え家の主人等が装着し郎従は腹巻・胴丸という鎧を着て郎等は鎧装着が無い場合がほとんどであった。大鎧は本来騎馬に乗ることを想定し弓を討つ事に長けた武具であるため、白兵戦になるとその重みに対し戦闘力は太刀を抜いても多勢にかかると問題外である。日本では馬に弓を得ると言う事は戦闘での「弓箭の道」(矢が魔を除くと言う宗教観で、それぞれ家により芸法がある)にはずれ恥の部類に入るが、蒙古軍は先ず馬から射る。元軍の鎧は布の衣服に見えるが、内側に七センチ四方の鉄板が縫い付けられ、十二キロほどの重さで騎馬戦、白兵戦においても運動性に優れていた。御家人の長弓は射程が百メートルで熟練した武士でない限り射ることは出来ない。蒙古軍の短弓は射程二百メートルもしくはクロスボウで鏑に毒が塗られており射術に対して簡単である。また、てつはうと言う火薬を用いた爆裂弾が戦闘に使用され、九州御家人に多大な被害を与えた。
定説では二十日の夜に元・高麗軍は暴風が吹き荒れ撤退したとされ、『八幡宮愚童訓』の伝える物であり、この暴風は八幡神が吹かせた「神風」と宣伝され、文永の役は神風により、一日で終息したと考えられてきた。しかし、服部英雄著『蒙古襲来』(山川出版2014)では数日間戦闘は継続され、二十四日には太宰府において戦闘が行われ、元・高麗軍が敗退したとされる資料が残されている。敗退と言うより、撤退したと考えられ、元軍は夜間の急襲の夜戦を好まず、艦船での寝泊まりを慣例としていた。また、気象学者の荒川秀俊氏は気象データーに基づいて文永の役の時期(現在の暦では十一月末)に九州に台風が上陸することは無いとして神風説を否定し、元軍の撤退は当初からの計画によるものとする新説を発表されている(高橋典之編『中世史講義【戦乱編】』ちくま新書)。私もそのように考える。元軍において文永の役の目的は、交渉に応じない日本に対し、占領ではなく、限定的な武力行使を行う事であり、三万五千の兵力がそれを裏付けしている。ある程度の軍事行動で目的を達した後、帰国するが、その際、数隻が嵐に巻き込まれ座礁転覆したと考える。
(写真:福岡県宗像神社)
『八幡宮愚童訓』には同二十一日朝、敵の艦船が消えており、武士たちは「ただ事ならぬ有様哉」と驚愕し、死地から再び生を感じただろう。志賀島に一席の敵船が座礁しており、兵・乗員は降伏を示していた。敵将軍は降伏を受け入れないと考え自ら海に飛び込み死んでいった。兵は陸地に渡り弓矢・鎧を脱ぎ降伏するが武士たちがそれを見て一斉に元軍の兵士を捕え、岸に並べ百二十人の首を一斉に落とした。また大友頼康の郎従は五十四人を捕虜としている(『勘仲記』文永十一年十一月六日条)。座礁した船は数隻あったと考えられるが、それらの様子について『勘仲記』に伝聞として「去る比、凶賊戦来りて、本国へ吹き返す。少々の船は陸上に馳せ上がる」と記載され、高麗川資料においても「たまたま、夜、大いに風吹き雨ふる。戦艦、巌崖に降れて多く破る」とある。『高麗史』巻ニ十八世家ニ十八忠烈王一元宗十五年の己刻の条で、元・高麗軍が十月末に撤退を始め一月弱をかけ合浦に帰着したのが文永十一年(1274)十一月二十七日で、そして不帰還者一万三千後百余人と記載されている。 ―続く
(写真:福岡県宗像神社)