鎌倉散策 北条時頼 ニ | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 北条時頼は安達景盛と共に三浦泰村を追い詰め宝治合戦において三浦氏を滅ぼした。その後、北条執権体制の安定を考慮し六波羅探題であった北条重時を連署に迎え、後に、重時の娘葛西殿を継室にむかえ時宗と宗政を儲けており、既に讃岐の局との間で長男時助がいたが時宗が太郎、次郎を飛ばし三郎時助、四郎宗政とした。

 

 建長四年(1252)、五代将軍の藤原頼嗣を京都に追放し、新たに後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立し、親王将軍の始まりとし、公武融和政策を取った。北条家は源頼朝の舅になる以前は、本来家格も低く権力を掌握するには幼少の将軍を置き、その補佐を行う執権と言う立場の正統性を得る事で権力を掌握したのである。そして、それを知る御家人に対して北条執権体制が独占色を強める中、反発を避け不満を抑えるため融和策を出している。例えば建長元年(1249)評定衆の下に引付衆を設置し訴訟の公正化と迅速化を図った。また京都大判役の奉仕機関も半年から三ヶ月に短縮させている。撫民政策を基に農民を保護する政策を出す。庶民においても奴婢・所従の方を定め、売り買いの価格を估価法により公定し(炭、薪、萱、藁、糠等)時頼の時代に三度の改訂を行っている。鎌倉の人口増加により商業活動が活発になり物価上昇を招いた対応である。押買(買い主が売り主の意志に反して、威力で財物を買い取る事)について固く禁止した。また、人質として質券に入れる事を禁止、人身売買等も延応の宣下の状を守り、禁止することが発令された。悪党対策もこの頃から始まる。

 

 康元年(1256)九月十五日、時頼は当時流行していた麻疹にかかり十日ほどで回復したが娘を亡くしている。そして同十一月三日、赤痢にかかった。同二十二日、小康状態になり時頼は執権職を始め、武蔵国務・侍所別当・小町の邸宅を長時に譲った。嫡子時宗は六歳であったため「眼代(代理人)」として譲ったとされ、同十一月二十三日、時頼は最明寺で出家し覚了房道崇と号した。この目的は嫡子時宗への権力移譲と後継者指名を明確にするための朝廷と同じような院政状態を作り上げる事だったとされている。

 康元二年(1257)一月一日、幕府恒例の儀式はすべて時頼が仕切り、宗孝将軍の御行始も時宗邸に出掛けた。病による出家であったが、時頼が依然として最高権力者の地位であり続けていた事になる。二月二十六日時が宗七歳で元服し、その二年後に宗政も元服、さらにその二年後の弘長元年(1261)正月、鶴岡八幡宮の供奉行人名簿に得宗家後継序列一位が時宗、二位が宗政、三位が時助とすることを明言した。時宗は北条重時の娘で継室の葛西殿、時輔は出雲横田荘の地頭三処氏の娘で側室の讃岐の局であり、これは、継室と側室の子の位置付けを明確にして後継者争いを未然に防ぎ北条執権体制と得宗家を確立させた。時助はその後時輔と名前を変えており、時頼は時輔を排除することは無く、注意深く配慮をもって扱っている。

 

 弘長三年(1263)十一月八日から病状が悪化し、同十九日には心静かに臨終を迎えるため最明寺北邸に移りに移り、七名の家臣以外は見舞いを禁止し、同二十二日時頼は最明寺北邸で死去した。享年三十七歳。「吾妻鏡』に臨終に際して袈裟を纏い座禅を組み、阿弥陀如来の前で息を引き取ったとされる。墓所は鎌倉市山ノ内福源山明月院と伊豆の国市長岡の如意山西明寺に残されている。

―続く