鎌倉散策 鎌倉幕府創設と政治機構3  | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

3.御家人

 御家人は平安時代から江戸時代を通し用いられ、時代により意味合いが違うところもあるが、基本的には家人と呼ばれる主人に仕える従者である。御を付けたのは主人が国の要人になり、私人から公人になった為と言われる。鎌倉時代の御家人は「開発領主であって、武家下文を賜った人」。開発した土地を自身により開墾し、所有者となったもので、その所有を鎌倉将軍から下文によって所領安堵された者を言い、東国武士に多かった。本来、土地の所有に関し荘園領主・国司が所領安堵の権限を有していたため、それらの武士には御家人になる事で本宅安堵と言う認定が多く行われた。この頃の武士は、ほぼ一から二町の屋敷地を持ち、堀や土塁で区画されていた。屋敷畠や門田等の直属耕地や下人在家を包摂していおり、これらを、本領・本宅と言い、それを御家人になる事で本宅安堵が行われた。一般的には鎌倉幕府将軍家との家臣の呼称とされ、戦等により恩賞、功勲として所領を賜る。それ以外の武士は非御家人であった。幕府創立初期は貴族、朝廷、寺社に仕える武士も多く、御家人は東国の武士がほとんどで、鎌倉殿御家人・関東御家人と称された。御家人になるには名簿(みょうぶ)の奉呈及び見参(けんざん)が必要であったが後に簡略化され、武士の名前が列挙された「交名注進」のみと簡略化されていった。

 

 御家人の必要条件としては、土地の大きさや動員兵力には関係なかった。そして武士だけではなく文官にも用いられた。武士としては千葉氏、三浦氏、小山氏等。文官として大江広元、三善康信、二階堂行政等である。御家人は普段は自身の領地におり、忠誠義務として京都番役、鎌倉番役、廂番に就き、鎌倉での諸行事の参加、また、いざという時には鎌倉に駆けつける事が決められ、これを奉公と言い、また官職の推薦、守護職や地頭にも就けられ、恩賞により所領を賜り、これを御恩と呼んだ。他に「公事」が義務付けられ、鎌倉初期は将軍による造営事業が御家人に割り当てられたが、鎌倉中期に入ると、各種造営の際、太田文(鎌倉時代に国単位で作成された国内の公領・荘園の土地面積、所有関係などを記載した文書)に従って費用負担がなされた。建長二年(1250)三月「造閑院殿雑掌の事」、建治元年五月「六条八幡造営用途」などがそれとされる。そして、もちろん納税義務もあった。江戸時代の従属的な関係ではなく、主従関係であるが、土地の権利と安堵を引き換えに奉仕は権利の収得と義務の遂行と言った形の主従関係であった。

 

 鎌倉幕府創設初期は御家人も東国に限られていた。西国は平家、寺社、貴族、天皇の領地が多く、治承・寿永の乱後、平家所領地を没官され、承久の乱で上皇側に就いた公卿、武士等の所領が没官され、その地に守護・地頭を置くことが出来、西国の武士たちも御家人になることが多くなった。しかし、御家人の中でも鎌倉時代中期に入ると、経済格差は生まれてくが、それにより御家人の公的な立場としての問題はなかったが、守護職に関しては諸費用が掛かるため裕福な御家人が任じられることが多くなったのも事実である。幕府も御家人が減る事や、困窮することが幕府の勢力を落とすことになり、それに対する恩賞や領地売買の禁止の法等が作り上げられた。西国武士の中には御家人を勝手に名乗り荘園領主と紛争を起こすことも多くなっていったとされる。建治元年(1275)では、およそ全国に四百八十の御家人がいた。武蔵国八十、相模国・信濃国それぞれ三十人で、残り三百四十人が全国にいたと言う事である。一国に御家人が十人いれば多い方だと考え、越前では御家人が一人であったと言う。

 

 御家人の所領が同地区にまとまっておらず、全国にあった為、郎従たちが離れた領地に赴き管理する。そのため本所における人数は限られており有力御家人以外は家の本所で五名から十名ぐらいの武士で構成されていた。この時期ご御家人の相続に関する決まりが無く分割相続が行われ。そのため相続の度、領地が縮小し約役に大きな負担を増すことになる。土地の売買、および借金により困窮し所領を持てない無足の御家人もあらわれ、それらの武士の不満が募って行った。寺社や公家に仕える武士たちを非御家人としたが、それらは主従関係の抑制があいまいの為、多くの悪党を作り出す。夜討、窃盗、強盗、山賊、海賊、殺害を起こす悪党は幕府守護において厄介な存在となり、蒙古襲来時二度目の弘安の役後、及び再度の攻撃の際の防備軍として朝廷から悪党を従事さす宣旨が下された。しかし、恩賞が御家人に対し有利な事等で非御家人や悪党がこれらに対し不満を拡大させた。これらも鎌倉幕府崩壊の大きな要因になった言われる。