九月に入り、行き付けのスペインバルのPandaさんに行くと一人のお客さんが私に挨拶をした。こちらも会釈をし、何時もの好きなものを注文する。そのお客さんがビールを注文すると、「すいません」と注文を私に詫びるように、会釈をする。今日は混んでいるようなのでママさんも大変であり料理を神技の如く造っている。その中で、そのお客さんはママさんに話しながら、なぜか私に同意を得る。年齢は四十代半ばの男性で一回りは違う年齢であると思う。私も再度会釈をしながらうなずき、何か私と話したそうな雰囲気であるので少し話してみた。すると、どんどん会話か弾んでいく。私が日本史の中世史を勉強するために大阪から鎌倉にやって来た事やブログでその勉強内容を発信していることなどを伝えると興味を持たれたようで、色々と質問される。かなり歴史に興味を持っている方であるが、歴史経過については詳しい。しかし、その詳細と、何故それが起こったのかの理由、その歴史的検証については、そこまで考察を得ない。それについて説明する。なるほどと理解されたようにうなずかれ、こちらもまんざらではない。歴史上一番尊敬する人はと聞かれ、私は聖徳太子と答えた。そして、またそれについて説明され、次はと聞かれ、日本人にはあまり好かれていないが源頼朝の大業と人間性には興味を抱くと答えると、またそこから話が弾む。ビールの二杯目を飲み干し、ウエイトレスの女の子が何時ものシェリー酒を進める。お店にとって迷惑かなと感じながら、その人も再度ビールを注文する。そして、その男性は若宮大路の発掘跡がガラス張りで保存されていると言う。
内容と場所はあいまいであったが、あの辺りだと思い九月十二日の土曜日の法難会の日に市中に出た際に探してみるとすぐに見つかった。鶴岡八幡宮から海にむかって東側、左の通りを行くとビルの前に表示がある。表示にはこの先ニ十二メートルと記載されている。ビルの中を進むと発掘調査を行った遺構として残されている。なぜか無性に感激した。「北条小町亭跡」の意向である。その遺構の中にビデオモニターが設置しており、その内容を記述させてもらう。
1.「北条小町亭跡」
2.本地点は「北条小町亭跡」という遺跡名称で呼称されていいます。
3.鎌倉時代、本遺跡跡のある若宮大路周辺や東方の滑川に至る一帯には鎌倉幕府有力御家人北条氏の屋敷が多くありました。
4.その中でも本地点付近は北条氏代々の本家筋(得宗)の屋敷があったとされる場所です。
5.またこの地は源頼朝が築いた大倉幕府が廃絶した後に北条氏によって幕府機能が移され将軍御所も築かれた場所でもあります。
6.平成二十六年二月から四月にかけて行われた発掘調査では屋敷の西側の一角や、鎌倉時代の前期から江戸幕府頃までにかけての若宮大路が複数発見されました。
7.道路遺構の東側から若宮大路の側溝(堀)も発見されました。今日、発見された一番古い道路免(十三世紀前半)は鎌倉幕府三代執権北条泰時が歩いたと想像されます。
8.この地下遺構展示は発見された若宮大路側溝と移籍体積土葬を造形保存と言う方で原住地再生したものです。
9.神奈川県鎌倉市北条小町北条小町邸跡発掘調査
鎌倉氏雪ノ下五l丁目三七八番一・五地点
10.鎌倉時代とは千百九十二年源頼朝が征夷大将軍に任命され神奈川県の鎌倉で幕府を開くことに始まる。後、約百四十年間、鎌倉時代がつづいたとされる。
出土物の物の中には下駄、木片、銭、白磁器、青磁器、陶器、獣骨などがあった。宋銭があったことは非常に面白い。皇朝十二銭が奈良時代朝廷により鋳造されたが普及せず、江戸時代まで日本で貨幣は作られておらず、平安末期、平清盛が宋銭を普及させた始め、平家滅亡後、朝廷は通用中止の命を出している。しかし技術革新と新しい経済活動により普及されていた。室町時代にはかなりの宋銭、特に北宋銭が輸入された。戦国時代に中国が明に変わると明銭も用いられたが、信頼度が無く、宋銭に比べ大きく不便で宋銭が求められ続けた。
この遺構は個人のビル建設の際の調査で見つかり、そのビルの所有者が、貴重な文化財であると考え、自費で保存され公開されている。遺構保存に側壁に強度処理をされたり、木造部には腐食防止の為の処理及び地盤等を樹脂加工されている。永年遺構のスペースの部分に対し何らかの費用が発生している。この保存に対し心から敬意を示したいと思います。