鎌倉散策 四十二、三浦氏滅亡 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

東国武士 三浦一族 四十二

 宝治元年(1247)六月五日、北条時頼が和平の意を示す書状を三浦に渡ったことを知った高野入道覚智は(安達景盛)は子息の秋田城介安達景義・孫の安達泰盛を呼び叱咜したと言う。「和平の御書状を若狭前司三浦泰村に遣わされた上は、今後、三浦の一族が独り驕り高ぶり、ますます当家を侮った時に、敢得て対抗しようとすれば、かえって災いなることは疑いない。ただ運を天に任せ、今朝、絶対に雌雄を決すべきで、決して後日を期してはならない」そして、安達泰盛、大曽禰長泰・武藤景頼・小鹿島公義らが軍士と共に甘縄の館を走り出た。自らもその勢いに乗り高野入道覚智も若宮大路の中下馬橋の北を通り鶴岡八幡宮の赤橋を渡り神護寺門外で時の声を挙げた。

 

 小鹿島公義勢が筋替橋の北に進み、三浦泰村邸を取り囲みなり鳴鏑を射たれ、鶴岡八幡宮で陣を張っていた武士は全てこれに加わった。『吾妻鏡』では和平交渉を進めていた盛阿が北条時頼に経緯を説明し、あれこれご沙汰があったため、和平の策を廻らしていたところ三浦泰村が功戦に及び、調停するすべはなかったと記述されている。鶴岡八幡宮の警護を行う武士が全て安達泰盛の軍に就くのも、また時頼の和平を廻らす術も三浦泰村が攻戦に及ぶ旨と三浦一族に責任を転嫁させている。すべてが三浦泰村誅殺の決定事項であり、時頼の和平工作に騙された結果の奇襲作戦で安達が出撃する時間稼ぎであったとしか言えない。そして二階堂の泰村の弟光村の館にも大江広元の孫長井康秀や二階堂行義の兵に取り囲まれていた。

 幕府の警護を金沢実時、大手軍の大将軍に北条時定とした。巳ノ下刻(午前九時)、西御門の三浦館周辺と二階堂通玄橋の二カ所で宝治合戦は始まった。三浦勢は防戦を強いられるが鎌倉中の反北条時頼の意志を持つ毛利季光(泰村の妹を室)、下野の宇都宮時綱、武蔵の春日部実景、常陸の関政泰などが鎌倉内で打って出たため、鎌倉内に戦火は広がった。しかし、野伏り戦の各辻々での小戦も巳ノ刻(御前十時)には収まり主戦場は西御門と二階堂に戻った。

 

 午ノ刻(正午、)北風が南風に変わった時に北条時定は三浦館の南隣の民家に火を放った。風に乗り炎が立ち上り、三浦館にはその黒煙が流れ、覆いつくし、故右大将(源頼朝)の法華堂に泰村とその一同は楯籠った。泰村の弟光村は永福寺に楯籠り、泰村のもとに使者を送った「永福寺は、優れた城郭です。ここで共に討ち手を待ちましょう」。泰村は「たとえ鉄壁の城郭があっても、きっと今となっては逃れられまい。同じことならば、故将軍の御影の御前で最期を迎えようと思う。速やかにここに来るよう」と使者を送り返した。それを知った光村は死を覚悟した兄の意志を拒むことは出来ず光村は八十騎で永福寺の総門を飛び出し法華堂に向かった。「佳き首とても、掻っ切るな。手向かうものは薙ぎ倒し踏みつぶして、ただ駆けよ。討たれて馬から落ちる見方ありとも見捨てて、無二無三に駆けよ」。敵方の隙を見て八十騎が門外に出た。迎撃に出た二階堂行義・行方らは矢を放つが光村らは射手を踏み倒し、その後の長井泰秀軍を粉砕し、そして二階堂行義を切り破った。両方の兵が多く負傷したが、光村は二階堂から荏柄天神を駆け抜け、北条時定安達義景の軍に背後から切りつけ、兄泰村の楯籠る法華堂に流れ込んだ。

 

 法華堂の中には光村が入ると、西阿・泰村・光村・家村・資村・大河戸重隆・宇都宮時綱・春日部実景・関政泰等が御影像の御前に並び昔の事や最期の授戒を述べたと言う。堂の外では北条時頼の軍と攻防戦が繰り広げられる中、西阿は専修念仏の信徒であり極楽往生する為に法事讃を諷誦(ふうしょう:声を上げ読む事)し、光村が調声(調声:一同の音声を整える)を行った。光村は「九条頼経殿が将軍であった時、御父久成道家殿の内々の仰せに従っていれば、兄泰村が武家の権柄を握る事とお約束あり、兄泰村が実行しなかった為、今の敗北になった」と語ったと言う。堂内には鎌倉幕府御家人番帳に名を記されている者ニ百六十人。それ以外の者ニ百七十六人がいた。

同八日、この時、法華堂の承仕法師の一人が召し出され、法師は昨日、香花を添えるため仏前にいたところ、三浦泰村以下大軍が急に堂内に乱入してきた為、逃げ出ることが出来ず、天井に上がって彼らがそれぞれ語るのを聞いた。光村は顔を自らの刀で削り、顔がわかるか人に尋ねたと言う。泰村は「流血で御影を汚し、寺院を焼く事と自害して穢れた姿を隠そうとする二つの事は、ともに不忠の極みである」と止めた。最後に「数代の功を思えば、たとえ一族の者であっても罪を赦されるべきである。まして義明以来四代の家督として、また北条殿の外戚として、内外のことを補佐してきたところ、一度の讒言により多年の昵近(じつきん)を忘れてたちまちに誅勠(ちゅうりく)の恥を与えられた。恨みと悲しみが合わさっている。後日になってきっと思い合わされることもあろう。ただし駿河前司(三浦義村)は寺門・多門の者に多く死罪を行い、その子や孫を滅ぼした。罪業の因果であろうか。今はもう冥途に行く身であり、強ちに北条殿を恨んではいない」と語り、総勢五百余人が自害して果てたと言う。宝治元年(1247)六月五日。

 

三浦一族にとって和田合戦、承久の乱、宮騒動と幾度も北条を倒す機会が有りながら躊躇し、機会を逃し、滅んだ。しかし泰村の最後の言葉に三浦一族の武士としての本質があったのだろう。そして拡大しすぎた一族を三浦義澄の様に束ねる事は、困難だった。この宝治の乱において三浦義澄の弟義連を祖とする佐原流三浦盛連は姻戚関係を保っていた北条時頼側に付き生き残り、後に子の盛時が三浦姓を継承する。幕府滅亡後の南北朝・室町期に鎌倉府に大きく影響を与えた。しかしこの佐原流三浦氏においても、永正十三年(1516)七月十一日、相模新居城(三浦市三崎小綱代)で後北条の北条早雲により攻め滅ぼされた。盛時の兄弟子孫は会津の豪族として生き、会津守護の蘆名(あしな)氏となる。後、高野入道覚智(安達景盛)の孫泰盛は御家人筆頭となるが、霜月騒動で北条家御内人平頼綱により滅ぼされ、北条氏は後醍醐天皇の幕府討幕軍の新田義貞の軍により攻められ北条高時、以下北条一門被官人ら八百余人が東勝寺にて自害し、北条一族は滅んだ。東勝寺跡の奥に腹切りやぐらがあり、今も薄暗いやぐらの中は武士(もののふ)たちの無念の情が窺える。 ―完