東国武士 三浦一族 二十二
寿永二年(1183)二月、頼朝と敵対した志田義広と源の行家が木曽義仲を頼り庇護され、義仲と頼朝との関係は悪化した。義仲は頼朝との武力衝突を避けるため和議を申し出、子息義高を人質に出し和議が成立した。
「養和の飢餓」が落ち着くと同年四月、平家の維盛を総大将とし、十万の大軍をひきい北陸に攻め、次々と義仲の城を落としていく。義仲の四天王の一人今井兼平が六千の兵をもって、平盛俊の先遣隊が陣を張る般若野に奇襲をかけ、平家軍は倶利伽羅峠の西に退却する。五月十一日、義仲は越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで平維盛の北陸追討軍十万を打ち破り、続く篠原の戦いにも勝利を納め、沿道の武士たちも糾合し、兵も膨らみ怒涛の如く京に進軍した。
六月十日越前国、十三日には近江国に入り六月の末に義仲は延暦寺に諜状(通告文)を送り自身に味方するよう恫喝めいた書状を送った。源行家は伊賀方面から安田義定等の源氏武将も都に迫り、摂津国の多田行綱も摂津・河内を抑え平家の補給路を断つ動きを見せた事で、平家は京を捨て、安徳天皇、皇太子の守貞親王を擁して西国に退いた。後白河院は危機を察し、比叡山に逃れている。
七月二十七日、木曽義仲は数万の兵を率い京に入った。二十八日、義仲は行家と蓮華王院に参上し平氏追討の宣旨がおりた。祖の宣旨の際、義仲と行家は席次を巡り反目して並列していたと言う。三十日公卿議定が開かれ、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三は行家と言う順位が確認され、それぞれ位階と人国が与えられ、義仲に京の治安維持を行うよう命じられた。義仲の軍は混成軍の烏合の衆であり、兵糧もなく、入京後、乱暴狼藉を働き、また、義仲も後白河院と皇位継承をめぐっても対立した。
(写真:比叡山延暦寺)
九月の平家との備中水島の戦いで惨敗し、京都では『養和の飢饉』により兵糧を集める事も出来ず、兵の略奪行為が横行し、治安回復も遅れた。傍若無人な義仲に見切りを付けた後白河院は源頼朝に院宣を下した。東海道、東山道の支配を認めることで頼朝に接近を図った。義仲は次第に追い詰められ、十一月に院御所内の法住寺を攻め後白河院を幽閉し、平家との和睦を打診するが拒絶され、ますます孤立を深めていった。十二月に義仲は後白河院に強要し頼朝追討の院宣を出させ、一月には征夷大将軍に任命させた。東国を平定した頼朝は準備を整え、範頼、義経の軍を近江まで出陣させていた。
一月二十日、頼朝は義仲追討を命じた。頼朝の弟範頼、義経が大将として鎌倉から出陣してゆく中、三浦義澄、和田義盛は鎌倉に留め置かれた。義澄、義盛は誰よりも戦場に赴きたかったと思われる。三浦党を率いたのは義澄の弟佐原義連、和田を率いたのも義盛の弟義茂であった。頼朝は京においても三善康信らの情報を張り巡らし、情勢はことごとく知っていたのだろう。既に義仲の敗北は政治的に敗北しており、軍事的にも鎌倉の本体を動かすこともないと考えたのだろう。頼朝にとっては次の平家打倒の為、兵力と策を持っていたと考える。そしてもう一つ鎌倉を動けなかった理由は、奥州の藤原秀衡の存在であった。
寿永三年(1184)一月二十日、範頼は三万の軍を瀬田に陣取り、義経は二万五千の軍を宇治に進めた。義仲は今井兼平に五百余騎で瀬田の唐橋、根井水哉、楯親忠に三百四騎で宇治を守らせた。義仲自身は百騎ほどで御所を守る。川霧が深く立つ早朝の宇治川で戦いが始まった。有名な「宇治川の先陣争い」は義経軍の佐々木高綱と梶原景季の事で、根井水哉、楯親忠の矢が雨の様に降り注ぐ中、先陣を争った。高綱が宇治川の先陣となり、圧倒的な兵力の差で義経軍は宇治川を渡り、怒涛の如く京に突入する。義仲は出陣し義経軍と戦うが、圧倒的な戦力の差で、後白河院を連れ出し西国に逃れようとし、院御所に向かった。義経は数騎の手勢を引き連れ後を追い、院御所前で義仲を追い払い、後白河院を無事確保した。義仲はその後、瀬田に向かい敗走する今井兼平に出会い共に北陸を目指す。範頼の大軍も追討に出、義仲は奮戦するが数騎になったところ、矢を受け討ち取られた。義仲の首を討ち取ったのは三浦党の石田為久で頼朝より直接、近江山室保(長浜市石田町)を賜った。本来、三浦の郎等であるため義澄が恩賞を受け、その後、郎等に行賞が配分されるのが慣例であるが為久に直接の行賞を行った。頼朝は、思っていた以上の戦果で、平家打倒の核心を掴んだと考える。また、この石田為久は、戦国時代の関ケ原の合戦で敗れた石田三成の先祖とされている。
(写真:京都宇治川、宇治川先陣の碑)
義仲追討の間、平家は西国で勢力を固める事が出来た。一ノ谷に城郭を作り対抗の意を見せた。後白河院は平氏の復権を阻止する為に頼朝に平家追討の宣旨を下し、平家に持ち去られた三種の神器の奮還も命じた。 ―続く