鎌倉散策 十八、三浦氏と頼朝挙兵 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

東国武士 三浦一族 十八

 司馬遼太郎の『街道をゆく42三浦半島記』で「頼朝は、確かにただ一人で日本史を変えた。また史上最大の政治家ともいわれる。ただ、その偉業のわりには、後世の人気に乏しい。」と記載されている。私もそう思うが、こうして中世の歴史を学ぶ中で、軍人ではなく、政治家であり、東国の武士たちが頼朝を持ち上げた魅力が少しずつ分かってきた。司馬遼太郎「確かにただ一人で日本史を変えた」と言う事に関しては少し違うように思える。頼朝ほど他者の潜在能力を見抜き発揮させる政治家はいない。従順し忠誠を示す者にとっては寛大で、慈悲深かった。そして多くの武士たちが慕った。しかし、自身の武士の棟梁としての地位に脅威と裏切りを与える者に容赦がなかった。

 1平家により源家の追討による宣旨、山木兼隆の伊豆目代、八月二日に大庭景親の大庭御厨江の下向が、如何に頼朝の窮地になるか、頼りの軍勢は三浦一族に係っていた。私自身これは頼朝の判断ではなく、博打がらみの決断と言ってよいと思う。しかし頼朝はここに賭け、挙兵した。

 

 治承四年八月十七日、北条時政邸が拠点となり源頼朝が五十騎ほどで挙兵した。二日前から伊豆・相模に暴風雨が襲った為、河の増水で従者の佐々木四兄弟が遅参し、伊豆国目代(国司の個人的な職)山木兼隆の襲撃は予定より半日遅れの夜討ちになったが、討ち取った。八月二十日、三浦勢は挙兵時に共に行動する予定だったか不明であるが、山木兼隆の襲撃が秘密裏に行う必要上、海路を取り、船出が出来ず、参陣に遅れたたと考える。頼朝は土井実平の所領相模国土井郷(神奈川県湯河原)に入った。山木兼隆を討ち取った事で、平氏に反感を抱くようになっていた東国武士達が集まるようになってきたが、それでも三百騎程度であった。同ニ十ニ日、三浦勢は三浦を出発し、陸路西湘に向かう。頼朝は相模国石橋山に陣を構えた。

 山木兼隆を討ち取ってから頼朝の動きが大庭方には不明であったが、それを追う大庭方の伊東祐親の軍三百騎が追い、石橋山に頼朝が陣を張ったことが分かった。平氏方の大庭三郎景親の三千余騎が北の陸つたいで石橋山付近に陣を張った。丸子川辺りに黒煙が登り、三浦勢が景親の一党の屋敷を焼失させていたことを知り、死をも恐れない三浦勢が到着すれば、苦戦になる事を考え、同二十三日夜戦を仕掛けた。三百機程度の頼朝軍は佐奈田余一義忠、武藤三郎、その郎従豊三(ほうぞう)家康らが頼朝の目の前で命を落とし大敗した。これが石橋山の戦いである。

  

 石橋山の合戦で景親の軍に加わっていた飯田家義は自身の家来を景親軍と戦わせ頼朝を杉山に逃したとされる。同二十四日、大庭景親の軍三千騎と激戦を繰り広げ、『吾妻鏡』八月二十四日条でその激戦を物語っているが頼朝は馬を廻らし百発百中の技を見せながら何度も戦いに及び、矢の外れる事が無かったと記載されている。しかし、頼朝の軍は疲弊し追い込まれていった。後の幕府重臣になる梶原平三景時は大庭方に就いており頼朝の所在を知っていたが、後三年の役で先祖鎌倉景政が源義家に仕えた事からの情に思う所があり、頼朝を逃している。また、この戦で北条時政の嫡男宗時が伊東祐親に打ち取られた。

 
 

 その夜、三浦義澄は丸子川東岸辺りまで来ており、対岸で繰り広げられる戦の音を聞きながら、歯がゆさを感じながら夜が明けるのを待っていた。そして明け方、三浦党の大沼三郎が疲労の果てに丸子川西岸にたどり着き、敗戦を知った。三郎に頼朝の安否を聞くが、人伝に討たれたと聞いたことを告げた。苦悶しながら三浦勢は衣笠山に引き返したが、途中由比浦で畠山重忠と遭遇し数刻に渡り戦った。重忠の郎従五十余りの首を取り、重忠は撤退した。畠山重忠の軍も坂東七平氏の兵であるが、いかに三浦勢が強かったか窺う事が出来る。

同二十五日、大庭景親は頼朝の行方を防ぐため軍を分散するが、頼朝軍は四散し頼朝は箱根山に逃れていた。『吾妻鏡』で北条時政は、ここで別れ甲斐武田に密命を受け向かっている。

  

同二十六日、畠山重忠は由比浦の敗戦と平家の長恩に報いるため、河越重頼と江戸重長と共に三浦一族がこもる衣笠城に籠る。東の木戸口の大手は次郎義澄と十郎義連、西の木戸は和田義盛と金田頼次、中仁は長江義景と大多和義久が守を固めた。辰の刻(午前七時)畠山重忠、河越重頼、江戸重長、金子・村山等の数千騎が衣笠城に攻め入る。三浦勢は昨日と今日の戦いで疲労困憊していた。夜になり義澄は城を捨てる事を父義明に告げるが、義明は義澄に城を出て頼朝を探し出すように指示する。自身義明は城にとどまり、敵兵を城に引き付け時間を稼ぎ、義澄ら一族を逃がす。義明は最後に一族に語った『源氏累代の家人として、幸いにもその貴種再興の時に巡り合う事が出来、こんなに喜ばしい事は無い。生きながらえてすでに八十余年。これから先を数えても幾ばくも無い。今は私の老いた命を武衛(頼朝)に捧げ、子孫の手柄にしたいと思う。汝らはすぐに退却し、(頼朝)の安否をおたずね申し上げるように。私は一人城に残り、軍勢が多くいるように重頼に見せてやろう』(引用:五味文彦・本郷和人編、現代語訳吾妻鏡)。

義澄は涙を流しながら父義明の命に従い四散した。

 

 同二十七日辰の刻、風雨が激しくなる中、三浦義明は衣笠山にこもり嫡男義澄や一族を逃がすため囮となり、時間を稼ぎ、攻め入る畠山次郎重忠、河越太郎重頼、江戸太郎重長と戦い、討ち取られた。享年八十九歳であった。大庭景親は、その後千騎を引き連れ三浦に攻め寄せたが、すでに義澄らは久里浜から同族の安西景益を頼り、安房に向け海に出た後だった。北条時政、義時、岡崎義実、近藤七国平らは土井郷の岩屋から船に乗り込み同じく安房を目指していた。