鎌倉散策 『鎌倉殿と十三人』十、征夷大将軍 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 文治五年(1189)九月九日、京の一条能保から泰衡追討の宣旨が陣岡に届いた。七月十九日付だった。頼朝は戦におそれ逃げた住民、僧侶に安堵して元に戻るよう指示し、同十二日、頼朝は陣岡を出て厨河柵に入る。同十五日、樋爪館を放棄し敗走していた樋爪俊衡と弟季衡が降伏の為に厨河柵に参上した。俊衡は六十を超え、白髪交じりの弱々しい姿で師衡、兼衡、忠衡の三人の息子、と季衡の息子、経衡の姿もあった。十八日秀衡の四男高衡が下河戸行平を通じて降伏し、参上した(高衡は奥州合戦で秀衡の息子として唯一生き残るが後十二年後の兼任の乱の首謀者と係り討ち取られた)。降人に対し赦免や本領安堵等の処理を行い同十九日平泉に向かった。二十二日、葛西清重を奥州総奉行に任命した。翌二十三日、平泉で藤原秀衡が宇治の平等院を模して建立した無量光院を巡礼した。そして同二十八日、鎌倉に向け出発した。

奥州征伐において頼朝は全国的動員を行い畿内以西の薩摩や・かつての平氏の基盤であった伊勢・安芸など平氏・源義仲・源義経に従っていた者にも「武器に足る輩」(文治五年二月九日源頼朝外文)に限定し、動員を図った。また御家人の不参加は所領没収を課し、全国的に御家人の確立化を図った。

十一月三日、院から奥州征討について、お褒めの御感が届き、頼朝に征討についての褒賞と御家人の勲功の賞につき報告するように伝えられたが、頼朝は褒賞については固く辞退した。理由とし勇士は戦場にて武勇を振るう事が第一であり、その名が上聞に上がれば名誉であるが、記録が残れば名が漏れた後世の子孫は、先祖が軍忠を示すことが無かったと恨みを懐くこともあるためと伝えている。これは武士の棟梁として頼朝と院、頼朝と御家人(武士)との関係上必要な事であった。同八日、帰国していた葛西清重に「平泉の辺りは特に対策を施して窮民を救うように。」と追討による被害の無かった辺りから農行に必要な種子や農具を遣わすよう、秋田群から種子などを納め出すように、今は冬であるが、あらかじめ外分を下しこの措置を住民に伝えておく事。また泰衡に味方し、逃走した者を捕縛する事。泰衡の幼い子息を探し出す事など細かい指示を出し奥州に戻した。

 文治五年十二月六日、中納言(藤原)経房より、褒賞を行うべきであると院宣が鎌倉に到着した。頼朝は重ねて辞退し、ただし奥州・奥羽の土地については明春にもご沙汰が欲しいと上申した。

同二十五日、後白河院から上洛を命じられ、明年に上洛する旨を伝えた。

建久元年(1190)正月六日、奥州の故(藤原))泰衡の郎従であった大河次郎兼任(かねとう)らが昨年の十二月から叛逆を企て七千余騎を率い鎌倉に向かって出陣したが、秋田大方の志加の(現秋田県八郎潟北部沿岸)渡しの氷が割れ五千余人が溺れ死んだ。奥州合戦の際に生け取られた由利八郎惟平(これひら)は頼朝に許され御家人となっており、小鹿島の大社山・毛々(もも)佐田(現秋田県秋田市大森山・新屋付近)で兼任と戦い宇佐美実政と共に討取られ、相模以西の御家人に動員令が出される。八日、東海道郡は千葉胤重、東山道は比企能員を発行し、十三日、追討使として足利景兼、大将軍として千葉胤重が出陣した。頼朝は御家人に手柄を争わず、兵力が集まり準備をととのってから戦に当たるよう指示した。兼任は陸奥中央部に進み平泉に入る。奥州残党を加え兵は一万騎になっていた。多賀城国府の留守居所も兼任に同調した。二月十二日に足利義兼が率いる軍と戦うが壊滅的な打撃を受け逃走、五百騎の残存兵力で衣川にて反撃するが敗れ、各地を逃走する。千葉胤政・葛西清重・掘親家らは兼任が蓄電した状況を鎌倉に飛脚を送る。兼任は各地を逃走するが、従った兵はいなくなり、自身の進退が窮まった。三月十日、栗原寺(現宮城県栗原郡栗駒待雄西沢の真言宗医作山上品寺境内付近に所在した)に出、ここで兼任は錦の脛巾(はばき)を着用し金作りの太刀を帯びた姿に樵(きこり)が怪しみ、十数人が取り囲み斧で惨殺された。その事を胤正に知らせ、首を見聞したと言う。

 七月十二日、かつて平家一門に屋敷があった六原に平家没官領として与えられて、新邸を造営する奉行として法橋昌寛が上洛した。頼朝は上洛までの期間は内政の政務、裁定、神事、朝廷とのやり取りと上洛の準備で多忙であった。後白河院はどうしても頼朝に上洛させ、望む恩賞と官位を与え頼朝に恩を与え朝廷と頼朝の位置関係を明確にしたかったと考えられる。十月三日、先陣、畠山重忠。後陣、千葉常胤で頼朝は鎌倉を京に向かい出発した。

十一月七日、頼朝入京、六原の新邸に入る。同十一月九日、後白河院と後鳥羽天皇に拝謁し権大納言に任じられた。同十一日に六条若宮八幡宮と石清水者に参詣を行い、十八日には清水寺に参詣している。同二十四日に右近衛大将に任じられ、十二月一日に拝賀を行ったが、同三日には権大納言・右近衛大将を辞任している。同十四日に京を出て十二月二十九日に鎌倉へ戻った。頼朝は十一月九日に内裏で摂政の藤原鐘実と会い頼朝は八幡宮の託宣で天皇を守るつもりであり、今は院により政治が行われ天皇は東宮同然であるが、院の没後に天皇が政治を行う事を述べている。しかし本心とは別に後鳥羽天皇も兼実もまだ若く、院の没後には政治を正すべきであると語った。

建久二年(1191)正月十五日、公文所を改め鎌倉幕府政所の吉書始めが行われ、政務を担当する政所が開かれ、以前の御家人達が恩賞を頂いた御書や頼朝花押書きされた書面等は頼朝が近衛大将に就任したため(辞任しているが)回収し、新たな政所の御下し文を発給した。初代別当は中原義元となる。また、四月一日、土御門通親の推挙により中原広元明法博士(律令化において大学寮に属した官職で法律に携る役人と考えられる)に就く。四月二十六日、延暦寺の大衆が近江国守護・佐々木定綱の処罰を求めて起こした強訴(建久二年の強訴が)が出された。定綱と子息は配流と院宣が下る。五月二十日定重は配流途中で梶原景時により斬首された。延暦寺を宥める頼朝の苦渋の決断であった。この件で、その後一条能保は検非違使別当、中原広元は明法博士を辞任した(詳細は大江広元の項で記載)。

閏十二月二十七日、御痢病(腹痛、下痢、赤痢等)と御不食が重なっているとの知らせが届き、

建久三年(1192)三月十三日、後白河院、六上殿で崩御、お腹に水がたまる大腹水で『吾妻鏡』に記載されている。享年は六十七歳で臨終時座られたまま眠るように亡くなり、治世は四十年に及んだ。幕府御所においても御仏事が行われた。

七月十二日に頼朝、征夷大将軍に任じられたと一条能保からの飛脚が同二十日に鎌倉に着いた。二十六日に勅使の肥後介中原景良・同康定が鎌倉に着き。征夷大将軍の除書を先例に従い鶴岡八幡宮で行われ、勅使の除書は使者を通じ頼朝に進上される。その使者に三浦義澄が遣わされた。これは大変名誉なことで義澄の亡き父三浦義明が「年老いた命を将軍に捧げる。子孫の手柄にしたいと思う」この言葉通り、頼朝は義明の息子義澄を賞された。

 

征夷大将軍の征夷は蝦夷を征討する意味であり、朝廷より独立統治権を有し、それを得たのは平氏と藤原氏であり、それに征東大将軍を得た木曽義仲である。頼朝は近衛大将の任官後すぐに返上し、自らの構想する武士の確立において征夷大将軍の名を欲した。近衛大将は性格上、京都に在京しなければならず、上級官僚の地位に当たる。征夷代将軍は在京することは無く、辺境常備軍としての現地司令官としての性格上、全国の武士を束ね、地方統治権を持つ。全国の武士団を安定させるためには、近衛大将よりも、格上の官職である征夷大将軍が必要だった。その権限の内容としては、武士の棟梁、守護・地頭を全国に置き、軍事・警察権を掌握する日本国惣追捕使・日本国惣地頭の公的地位。また右大将として認知された、家政機関を政所などの公的な政治機関に準ずる扱いを受ける権限を公的に裏付けされた地位が征夷大将軍であったと考えられる。「前右府」に変わる官職として「惣官」、「征東大将軍」、「上将軍」、「征夷大将軍」があり、『山槐記(さんかいき)』建久三年(1192)七月九日条、が発見され、源頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が発見された。平宗盛は「惣官」、木曽義仲は「征東大将軍」、「上将軍」は日本では前例がなく坂上田村麻呂が任官した「征夷大将軍」が吉例として朝廷が消去法で選んだことが明らかになった。