鎌倉散策 『鎌倉殿と十三人』九、奥州藤原氏滅亡 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 文治五年八月十二日、一昨日の木戸口の戦いで「河村千鶴丸」が名乗りを上げ、敵陣に入り数人の敵を討ち取った。頼朝は初めて聞く名で、千鶴丸に父の名を聞いた。山城権守河村秀高の四男である旨を申し上げる。頼朝はおほめになり、その場で元服させ、加冠は加々美次郎長清が務め、名を河村四郎秀清と名乗った。母は頼朝御書の女官である京極局で兄の義秀は大庭景親に同調したため富士川の合戦後、景親ともに捕縛され、所領は没収されるが大庭景義の計らいで免赦される。千鶴丸は兄義秀が捕縛中に浪人となり母の京極局の所に置かれていた。奥州追討には譜代の勇士として推挙があり、お供に加えられた。今回の功績に対し岩手郡・斯浪軍の北上東岸一体と茂庭の地、そして摩耶郡の三か所の所領を賜った。後の承久の乱では兄義秀と共に幕府に方に就き、宇治川での戦いに武功を挙げた。

頼朝は、その夕方に多賀の国府に到着し東海道の大将軍千葉常胤・八田知家と参会した。同十三日、北陸道軍の大将軍比企能員・宇佐美実正は出羽国に討ち入り、泰衡の郎従の田河太郎行文・秋田三郎致文らをさらし首にした。同十四日、泰衡が玉造郡、また国富の中山の上の物見岡に陣を張ったと言う情報が入り、判断が付きにくく玉造郡に向かった。しかし物見岡も小山朝政・同宗政・同朝光・下河辺行平が捜索に向かった。物見岡は幕だけが残り泰衡の姿はなく郎従四、五十人が防戦したが、すべての敵を討ち獲った。

 

 同二十日、頼朝は玉造郡に赴いた後、多加刃波々(たかばば)城を囲んだが泰衡はすでに逃れていた。城に残った敵兵は全て投降した。先陣の軍師らに御書の趣旨を理解し合戦の計略を立てるよう御所を遣わした。「それぞれが敵を追い、津久毛橋(つくもばし:現宮城県栗原市)のあたりに至った時に、敵がその場所を避けて平泉に入った場合、泰衡は城郭を構え軍勢を集めて待ち構えているであろう。そうであれば、たった一、二千騎を率いて向かってはならない。二万騎の軍兵整えた後に攻めかかるように。敵はすでに敗北している。味方の一人でも被害が無いように用意せよ」との内容であった。同二十一日、暴風雨の中頼朝は泰衡を追って祝い軍の平泉に向かわれた。栗原・三迫の要害を落とし津久毛橋に至り梶原の景高が和歌を一種読み「陸奥の勢は御方に津久毛橋を渡して懸けん泰衡の首」頼朝は祝意和歌だとし、お褒めの言葉があったと言う。同二十二日、平泉に入るが、平泉は既に火が放なたれ、人影もなく滅んだ平泉の土地だけが残っていたと言う。南西角に一当蔵が焼け残り見分すると沈(じん:香木)、紫檀(したん)をはじめとする唐木の厨子が数脚あった。その中に納まっていたものは、牛玉(ごおう:牛の胆石)や犀角(さいかく:サイの角)、象牙の笛、水牛の角、紺瑠璃等の笏、金の沓(くつ)、玉幡(ぎょくばん)、金の花鬘(けまん)蜀江の綿の直垂、縫っていない帷、金造りの鶴、銀造りの猫、瑠璃の灯炉、南廷百(それぞれ金の器に持っている)等であり、家臣に分け与えた。

 同二十三日、京の一条能保に、現在までの状況を書き、飛脚を発した。その後も軍兵を方々に分け泰衡の捜索は続いたが、存亡は不明であった。同二十六日、泰衡から頼朝へ事の成り行きと自身のご赦免を求める書状が御宿所に投げ込まれた。頼朝は泰衡を捕縛する事のみを考えていた。九月二日、頼朝は平泉を離れ、岩井郡厨河に赴いた。この地は頼朝の祖の源頼義が朝敵安部貞任を十二年の間、追討し、ついにこの厨河柵において首を獲った地である。吉例に因み泰衡の首を獲る事を考えていた。同三日、泰衡は数千の軍兵に囲まれ、一時の命を長らえるため逃走を続け、数代にわたり郎従であった河田次郎を頼って肥内郡贄(にえ)柵に至ったところ、川田が心変わりし、郎従らに泰衡を囲ませ首を獲った。河田は泰衡の首を頼朝に献上しようと馬に鞭打ち向かった。陸奥押領使藤原朝臣秀衡享年三十五歳。同四日、頼朝は陣岡で北陸道軍と合流した。同六日、河田は泰衡の首を梶原景時を通し頼朝に献上した。因人の赤田次郎に首実検をさせ、間違いなく泰衡の首と申した。頼朝は景時に河田に仰せ含めさせて言った。「汝の行為は、ひとまず功があるように見えるが、泰衡の捕縛は我が手中にあった。譜第の恩を忘れ主人の首をさらした罪は八虐の罪に当たる」とし斬罪に処した。

 

 同七日、泰衡の郎従由利八郎維衡が生け捕られ、生け捕ったのが宇佐美実政か天野則景かを梶原景時に審議をさせるが、景時が維衡に「汝は泰衡の郎従の中でも名が聞こえた者であるから、真偽をあながちに曲げて虚飾を加える事は無かろうが、ありのままに言上せよ。何色の甲を着けたものが汝を生け捕ったのか」。維衡は憤怒して言った「汝は兵衛佐殿(ひょうえのすけ:頼朝)の家人か。今の口上は過分至極であり、たとえ様もない。故御館(泰衡)は秀郷将軍の嫡男の正統である。これまでに三代、鎮守府将軍の号を保持してきた。汝の主人であってもなお、このような言葉を発すべきではない。ましてや汝と我と対峙した時に、どちらに勝劣があろうか。運が尽きて因人となる事は勇士の常である。鎌倉殿の家人だからと言って、無礼な態度を示すのは全く理由がない。その質問には、全く返答はできない」。景時が真っ赤な顔頼朝に讒言した。頼朝は景時に変わり重忠に尋問させ、重忠の礼を正した言い方に対し、納得し答えたと言う。

 

 頼朝は維衡を参らせ、「汝の主人である泰衡は、威勢を両国に振るっていたので、刑を加える事は難しいと思っていたところ、立派な郎従がいなかった為か河田次郎一人の為に誅されてしまった。いったい両国を支配し、十七万騎の棟梁でありながら、百日も支えられず、二十日の内に一族がみな滅亡してしまった。言うに足らないことよ」。維衡が言った。立派な郎従も少々は従いましたが、壮士は処所の要害に分散し派遣されており、老将は歩行進退が不自由で心ならずも自殺しました。私のような不詳の者はまた捕虜にとなったので、最後に御供が出来なかったのです。そもそも故佐馬頭守(さまのかみ:義朝)殿は東海道十五か国を支配していたのに、平治の逆乱のときには一日も支えられずに没落し、数万騎の主であったのに長田庄司忠到によってたやすく誅されてしまいました。昔と今では優劣がありましょうか。泰衡が支配されていたのは、わずかに両国の勇士のみです。にも関わらず数十日の間悩ませました。不覚であったと容易く判断できないでしょう」。頼朝は幕を垂らし、その場を去った。―続く(「」文の引用:現代語訳吾妻鏡、五味文彦・本郷和人編)