鎌倉散策 『鎌倉殿と十三人』六、頼朝 朝廷工作 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 平家追討時に頼朝は東国から動かなかった。そして、動かなかったことは功を奏した。奥州藤原氏を牽制する為には頼朝が鎌倉から動けなかった。しかし、範頼、義経が多大な働きを行う事で、動かないこと、人の目に触れないことで朝廷からの頼朝の存在感は一層大きくなった。元暦元年(1185)義経はその前年の八月に白河院より左衛門少尉、検非違使を任官する。三月二十四日、壇ノ浦で平i家を滅亡させた。元禄二年(1186)八月に源義経(伊予守)・行家は頼朝の許可なく後白河院に官位を受ける。頼朝は東国の武士を束ねる棟梁として、この事は許せなかった。また、義経の木曽義仲、平家討伐に対しての功績は目覚ましく、頼朝の棟梁としての地位を脅かす要因でもあった。義経は戦術家としての功績は、ずば抜けているが、戦略家として武士の棟梁の頼朝は、義経は武士の結束を外す恐れのある存在と認識した。

 寿永三年(1184)年二月に一ノ谷合戦から元暦元年(1185)三月の壇ノ浦の平家滅亡まで東国において戦の指示と捕縛した平氏の武将の対応、また、武士による内政基盤を作っていた。二月一ノ谷で捕縛された平重衡が梶原の景時に連れられ鎌倉へ下向、頼朝と対面した。頼朝の尋問に対しても武将らしく堂々たる態度と、優雅な物腰の立派な人柄は、頼朝を感嘆させた。もと重盛の家人であった工藤祐経が官女の千手前らを使わして酒宴を催し、平重衡を慰める(「鎌倉散策」の教恩寺にて詳細を記載)。その後、畿内での狼藉を鎮めるための朝廷等に言上を行い、京での治安維持の指示を強めている。

 四月十四日、三善康信、源民部太夫光行とが京都から鎌倉に来た。光行は父の豊前前司(ぶぜんぜんじ)光季が平家に属したので、その赦免を願う為に、また官人であった三善康信は頼朝のもう一人の乳母の妹の息子で、配流中の頼朝に月に三度は京との情勢を送っていた。頼朝は長年のやり取りはあったが初めての対面であった。頼朝は「鎌倉に住んで、武家の政務を補佐せよ。」と言い、康信は以前から関東に志があった為、承諾した。初代問注所執事に康信がなる。公文所別当には大江広元がなった。この大江広元は頼朝の最大の重臣となり幕府政治を司る。この年の十月から公文所、問注所が開かれた。

四月二十六日、木曽義仲を討ち平家を滅亡させ、義仲の嫡男、大姫の婿、木曽義孝の必要性がなくなり義孝を殺す。その後、大姫が悲しみの余り病気になる(「鎌倉散策」の岩船地蔵と常楽寺に詳細を記載)。

 五月十一日、前内府平の宗盛を捕えた事により、頼朝が従二位(四月二十七日)に叙された叙書(除目で決定した任官の目録)が鎌倉に届いた。同十四日、寿永二年二月に志田義広が頼朝に反旗の軍を挙げ鎌倉に攻めようとし、小山朝政が防いだ。敗走後、木曽義仲に庇護を受けた義広を見つけ、去る四日、波多野三郎・大井実春らが伊勢国羽鳥山で合戦、誅殺したと報告を受ける。同二十一日、頼朝は御所を高階泰経朝臣に池の前大納言平頼経(平治の乱後頼朝の助命を行った池の禅尼の息子:清盛の異母弟)と子息光盛の元の官職に戻される事と、源氏のうちで源範頼、平賀広綱、源義信を一国の国司に任官することなどを院に奏聞してほしいという内容であった。その後、院において小除目(欠官を補充する小規模な儀式)が行われ、除書が届き、権大納言に平頼経、侍従に同光盛、河内守に同保業、讃岐の守に一条能保、参河(みかわ)守に源範頼、駿河守に同広綱、武蔵守に平賀義信であった。範頼は義経が任官の推挙を願い出ていたが敢えて許さず、範頼を推挙されたことに大変喜んだ。

 

 六月十六日、一条忠頼が御所にて誅殺された。武田源氏の武田信義の嫡男で富士川の戦い、木曽義仲の追討戦に参加し駿河国を実効支配していた。『吾妻鏡』では「威勢を振るうあまり、世を乱そうとする野望を抱いているとのうわさが聞こえてきた。頼朝はこれをお察しになり、そこで今日、忠頼を御所の中で誅殺されるところとなった。…」現代語訳『吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編引用で、具体的な内容が記載されていない。一ノ谷の戦には甲斐源氏の安田義定(遠江国守護)が参加しているが忠頼は参加しておらず京都の警護に当たっていたのではないかと考えられ、朝廷にも接近したと思われ。平家討伐において頼朝と朝廷が交渉を行っており、平家没官領を頼朝に与え(自治件及び人事権)、寿永三年三月二十七日には除目で正四位下を除した。策略好みの後白河院は頼朝に寿永二年十月宣旨を出しており、これ以上の権限の譲渡を避けたかったと思われる。頼朝討伐に忠頼を立てようとしたのではないかという説もある。その後、武田源氏は頼朝の御家人となり家督は五男信光が継いだ。

 八月十九日、前出羽守平信兼とその郎従が伊賀国において兵乱を起こすが、守護の大内惟義が合戦の末、信兼を敗走させ逆徒九十余人を打ちとり、恩賞を求めた。頼朝が一国の守護に付けたのは狼藉を鎮圧する為が目的で家人達が殺されたのは惟義の怠慢であると応じなかった。これにより京都にいる義経に平家の残党を早急に探し誅殺せよとの命を発し、八月八日には範頼に西国の平家追討使として鎌倉を出た。そして文治元年二月に屋島、文治元年三月に壇ノ浦の戦で平家を滅亡させた。

 文治元年四月十一日、義経から壇ノ浦の記録を京、鎌倉に進駐。入海した平氏の人々、生け捕りにした人々名が記され、その中に安徳天皇の母の建礼門院の名があった。そして宝剣紛失を記している。同十五日、頼朝は自身の推挙なしに官職に任官をした御家人に対し非難し、朝廷の任官の秩序の衰えを唱えた。官職に任官されたものは在京して守衛の役を務めるよう命じ、墨俣以降の下向を禁じた。その中には梶原景季、八田知家、小山朝政も含まれていた。源範頼は鎮西にいたため任官を受けていなかった。同二十一日、梶原景時の義経の行動についての讒言が鎌倉に届く。平氏との合戦内容と戦勝した事が義経一人の功績の様に考え、皆が頼朝を仰いでいたから、一心として戦功をあげられた。兵士は心から義経に従う者はおらず、と記載し、合戦が終わったため軍奉行を離れ、鎌倉への帰参を願い出ている。同二十六日,  平宗盛、生け取られ入京後、五月七日、義経が宗盛親子を連れ鎌倉に向かった。

 建礼門院は罪を咎められることなく、洛東の吉田の律師実憲の住坊で隠棲する。五月一日には出家し、直如覚尼と名乗る。後、大原の寂光院に移り平氏家の菩提を弔った。また木曽義仲の妹の宮菊が所領の押領の濡れ衣が掛けられ、事実無根であることが判明し、政子は哀れみ、頼朝は美濃国遠山庄内の一村を与えられた。この頃から、一層義経への疑心が深まり、東国武士に対し、義経に従わないよう内々に支持している。

  

 五月十五日、義経が宗盛親子を連れ小田原の酒匂に着き、明日鎌倉に入る事に使者を出すが、「義経は鎌倉に入ることを禁ず」と命令が出された。腰越から中原広元に送り頼朝への取り成しと、わび状を添えて依頼するが、頼朝は答えを出さなかった。後に有名な「腰越状」である。六月七日、頼朝は宗盛との対面を中原広元に相談され、重衡との対面の時と違い、無位因人と対面することは軽率のそしりを招くと言う事で簾中越に宗盛の姿を見られ諸将が居座る中、比企能員を通して言葉をかけられた。能員は蹲踞しで伝え、宗盛はしきりに命惜しさに、へつらう様子であったと言う。六月九日、義経は頼朝の拝謁もなく宗盛、重衡を連れ京都に向かった。義経は鎌倉に来て兄頼朝に遭えば自身の嫌疑は納得していただけると思っていたが、この対応に不満を持ち頼朝に対し反旗を抱いたとされる。

 六月十三日、頼朝は義経に分与した平家没官領をすべて没収され、中原広元、藤原利兼が奉行した。頼朝は義経が広元に取り次いだ手紙の内容と帰洛の際「関東において恨みを成す輩は、義経に属すべき」と言い放ったと『吾妻鏡』。では記載されているが、その事が事実であるかは不明と言ってよい。―続く