小町の静かな住宅街に囲まれ、たたずむ寺院が妙隆寺である。小町大路から西に参道があるが、狭い鎌倉市中の小町を散策していると何時も別の方角から妙隆寺に至る。妙隆寺は日蓮宗の寺院で開山は日英上人であるが、鎌倉七福神の内、寿老人を祀る寺であり境内に寿老人と白く染め抜かれた赤い幟(のぼり)が建てられている。平日は静かな寺院であるが、土曜日曜になると七福神巡りで御朱印帳を持たれた人が多い。
宗派:日蓮宗。 山号寺号:叡昌山妙降寺。 開山:日英上人。 創建:至徳二年(1385)。開基:千葉胤貞。 本尊:釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。 寺宝:木造釈迦如来像、日祐・日英・日親の曼陀羅本尊、日蓮上人坐像(市文)、日英・日親と胤貞の木像(寛永十一年(1634)鎌倉仏師菊池出雲守作)寿老人像。
妙降寺の地は鎌倉幕府内で頼朝に最も信頼が厚かった千葉常胤の子孫胤貞の別邸跡と伝えられ、「千葉屋敷」とも呼ばれていた。胤貞は下総の千葉家の氏寺として中山法華経寺を創建した。日英は日蓮宗諸門流の激しい争いの中で身延山久遠寺の日叡との論争に勝、中山法華経寺の中山門流を不動のものとした。妙隆寺は中山流の鎌倉での布教の中心の寺院となった。
二世の日親上人は上総で生まれ中山法華寺に入り、二十一歳で妙降寺に来寺した。荒行を好み、指導活動においても厳しい僧であった。本堂前の池で寒中百日間を水を浴びる修行を行っている。『新編鎌倉志』では一日一本ずつ生爪をはがし、十指の爪が百日で生え変わると請願成就が叶うとし、その血を池の水で流し、その血水で曼陀羅を描いたと言う(爪切り曼荼羅と呼ばれ、その後に他の住持が盗み、所在は不明となる)。また、日蓮上人の『立正安国論』に倣い『立正治国論』を室町幕府に六代将軍足利義政に諫言(かんげん)し、受け入れられず、捕らえられた。焼けた鍋を頭からかぶせられる拷問にあい、それでも主張を曲げなかったことで「鍋かむりの日親」と称された。その時に獄中で本阿弥光悦の祖祖父本阿弥清信と知り合い、日進に帰依し永享八年(1436)京都に本法寺を創建し、開山を日進とした。その後、長享二年(1488)、八十一歳の長寿をまっとうした。