十二所神社から光触寺に行く途中に大江稲荷がある。金沢街道の右手に階段があり朱塗りの鳥居が見える。階段を登ると薄暗く小さな社があり、その中に白狐と祠が祀られている。
祭神:大江広元。 本尊:不動明王(五大天王)。 創建:不明。
稲荷社の裏の谷に大江広元の屋敷があった。
大江広元は大江匡房の曾孫である維光の子として久安四年(1148)年に生まれ、下級貴族であったが、朝廷で小外記となり、その後頼朝の招聘により京都を離れ鎌倉入りした。鎌倉幕府の公文所別当(長官)、政所別当を兼務し、頼朝の有力な側近として幕府の創設・発展に貢献した人物である。
頼朝死後、北条正子、北条義時と強調し幕政に参与した。承久の乱の祭、嫡男親広は官軍に着き親子相克する。「吾妻鏡」では広元は幕府側に立ち主戦論を唱え慎重な御家人たちを鼓舞し、幕府の勝利に導いた功労者の一人と記している。また、朝廷との連絡網、土御門通親などの公家に対して独自の連絡網を持っていた。官位は頼朝死後、二代執権北条義時を上回る正四位で最終的に正五位を一人許された。大江広元は七十八歳で死去されたと「吾妻鏡」で記載されている。大江氏は広元の死後粛清され、生き残った親族が所領のあっいた安芸に逃げ、その子孫が毛利元就と言われている。鎌倉に残った親族もいる。
現在は祭神の大江広元の木像は五大堂明王院で管理されており、初午祭では、神主ではなく五大堂明王院の御住職が、読経供養をされる。鎌倉中期では光触寺の境内の中にあったと記載されている。
大江広元の墓は法華堂跡の裏山の中腹に、二つ並んだやぐらが彫られ、向かって右側のやぐらが大江広元の墓と言われる。左が島津忠久の墓と言われる。また明王院脇からの天園ハイキングコースに広元の墓と伝わる五輪塔が立っている。
鎌倉市の地図にも記載されておらず、また、「鎌倉の寺社122を歩く」「鎌倉の神社小辞典」等にも記載されていない。こうして歩いて行くと知らない発見に出会うことが楽しい。縁起は不明だが、ここも小さいながら手入れが行き届き小綺麗にされている。里人たちの大江氏に対する崇敬の念を感じ、足を進めた。