山号寺号は粟船山(ぞくせんざん)常楽寺。大船の地名は、この粟船(あわふね)から来ていると言う。もともとこのあたりが粟船と言う地名だったらしい。常楽寺の名を高めたのは建長寺の開山者である蘭渓道隆(らんけいどうりゅう:大覚禅師)が寛元四年(1246)に南宋から渡来し建長寺が建立されるまでの五年間をこの常楽寺で住持を務め、宋の禅を広めた事が大きい。
蘭渓道隆(1213~78)は西蜀の生まれで、宋の臨済宗の禅僧である。諸国を巡回した後、臨済宗揚岐派の無明慧性(むみょうえしょう)について悟りを開いた。当時、南宋はモンゴル軍脅かされており、入宋していた京都泉涌寺東迎院主月翁智鏡(げつおうちきょう)の勧めで、中国宋の厳格な禅宗普及を理想に描き、寛元四年(1246)に日本に渡ってきた。道隆、三十三歳の時である。その後、1279年、南宋は杭州湾の崖山で元軍に撃滅され、完全に滅びた。道隆六十六歳で没した次の年であった。道隆は博多、京都をめぐり、宝治二年(1248)に鎌倉へ下向、寿福寺に掛錫(かしゃく:寺僧が他の寺に滞在すること)、それを聞いた北条時頼は是非にと常楽寺(現大船)に従事させて、自ら参禅した。高名な蘭渓道隆の事は鎌倉の僧の知るところにより、多くの僧が参集した。時頼は中国様式の禅苑の創建の必要性を感じ、本格的な禅宗の専門道場として建長寺が開創されることになる。「常楽は建長の根本成り」と言われるほど建長寺と深い関係を持ち、現在は臨済宗建長寺派の寺院である。
常楽寺は嘉禎三年(1237)鎌倉幕府三代執権北条泰時の妻の母の追善供養の為に粟船御堂を建て、退耕行勇(たいこうぎょうゆう:栄西に師事)が供養の導師を務め、開山したのがこの寺院の始まりとされている。北条泰時は、従来の専制的な体制から合議制に切り替え、体制の一新を図った。また、現存する築港では日本最古の和賀江島を材木座海岸に築き宋貿易に力を入れた。そして武家御法度の規範となる御成敗式目等を制定するなど善政を行った執権であり、北条氏の中興の祖と称される。仁治元年(1242)、六十歳で没し、仏殿背後に墓標が建てられてある。
創建当初は密教系寺院で建長六年(1254)の泰時十三回忌でも真言供養が行われた。泰時没後孫の五代執権時頼が蘭渓道隆を迎え、寺名も泰時の法名常楽寺殿から「常楽寺」と改名され、禅寺として臨済宗の寺院となった。
宗派:臨済宗建長寺派。 山号寺号粟船山常楽寺。 創建:嘉禎三年(1237)。 開山:蘭渓道隆。
開基:北条泰時。 本尊:阿弥陀三尊像、室町の作。 寺宝木造文殊菩薩座像(県重文)、鎌倉期の作。一月二十五日の文殊祭以外は開帳されない秘仏。木造釈迦如来坐像(市文)、南北朝時代の作。梵鐘、宝治二年銘。建長寺・円覚寺の鐘とともに鎌倉三名鐘で市内最古の梵鐘(現在鎌倉国宝館に寄託、国重文)。茅葺の山門、鎌倉市の指定文化財に指定されており、仏殿は県重要文化財に指定され、近世禅宗様仏殿の代表的建築物である。天井には狩野雪信筆の「雲竜」が描かれている。
仏殿裏に北条泰時の墓がうかがえ、その横には道隆のもとで学んだ高僧、南浦紹明(なんぼじょうみょう:大応国師)の墓もある。まわりが墓地の為、いったん山門を出て、山門に向かって左手の寺院横の細い道を行くと裏山に行く事が出来る。裏山に稲荷社があり、その横に頼朝の娘、大姫の塚とも言われる姫宮塚がある。(北条泰時の娘の、姫宮の墓ともいわれる)。また、大姫の墓の所在は定かではないが、勝長寿院に葬られたと言う説もある。頂上には木曽義仲の子義高(大姫の夫)の霊を祀る木曽塚がある。義高と大姫の悲恋は以前に岩船地蔵で記載したので、そちらもお読みください。
姫塚 義高の霊を祀る木曽塚
鎌倉の中世史の歴史を勉強していると、一度は訪れたくなる寺院である。大船駅からバスでも行けるが、常楽寺まで歩いて十五分ほどである。三時間ほどの行程で常楽寺、多門院、熊野神社(大船)に行く事も出来る。見た目は、質素な寺院であるが、鎌倉らしく山門、本堂、裏山と鎌倉の寺院として引き付ける者は多い。当日、本尊の阿弥陀三尊は東京の国立博物館に展示のため、拝観することはできなかった。住居から歩いて二十分ほどで来れるため、次の機会にしよう。