鎌倉散策 甘縄神明宮  | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

鎌倉散策 甘縄神明宮  あまなわしんめいぐう

      

 九月十五日例大祭が行われるとガイドブックに書かれていたので、出かけたが先週の八日に行われていた。残念に思いながら、役員の人と話していると、三連休の為、人数の調達が、かなり難しいらしく。来年は九月十三日に行われるとの事。来年の楽しみに取っておこう。せっかく甘縄神明宮の事を調べたので述べさせていただく。

 甘縄神明宮は鎌倉で最も古い社と言われている。天照大御神を祭神とされているため、以前は神明社、神明宮と呼ばれていたが昭和七年に甘縄神明神社と改称された。里人習慣で現在も甘縄神明宮と称されている。鎌倉市の地図にも甘縄神明宮と記載されているが、正式名は甘縄神明神社である。

   

 略誌によると甘縄別当院が和銅三年(710)八月に行基が草創し、豪族染谷時忠が建立したと伝わり、山上に神明社、麓には神輿山円徳寺を建立、後に寺号を甘縄院と名付けられた。堂内に位碑があり、碑面に通称を記して背に神亀五年(728)十月八日と書かれている。この別当甘縄院は、明治の廃仏毀釈で廃寺となった。明治六年(1873)長谷の鎮守として「村社」に列格され、境内社の五神明社は明治二十年(1887)、長谷寺の鎮守を合祀したもの。

   

 

祭神:天照大御神、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと:白山)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと:稲荷)、武甕槌命(たけみかづちの命:春日)、菅原道真公(すがわらのみちざねこう:天神)。例祭:九月十四日。 境内社:五神明社、秋葉社。 神事芸能:神輿渡御。 宝物:神輿、源義家座像。 神徳:家運隆昌、国土安泰

 染谷時忠(染谷太郎大夫時忠)は藤原鎌足の玄孫(やしゃご)で、南都東大寺良弁僧正の父で、文武天皇の御宇により聖武天皇の神亀年中(697~729)、鎌倉に居住し、東八箇国の総追捕使となり、東夷を鎮めた。染谷太郎大夫時忠の姓は漆部氏と言う。神護景雲二年(768) 漆部直伊波(漆屋(染谷) 太郎大夫時忠は藤原仲麻呂の乱で功績をあげ、相模宿禰姓を賜り、相模国の国造り(646)の大化の改新以降は名誉職)になった。染谷の姓は漆部から来ていると言う。

   

 源頼義が平の直方の娘と結婚し、甘縄神明宮に祈って八幡太郎義家が生まれたことから源氏と縁が深い神社として信仰を集めた。康平六年(1063)、頼義は当社を修復し、義家も永保元年(1081)に修復を加えたという。文治二年(1186)十月、当社「を伊勢別宮」と崇敬した頼朝が社殿を修復し、四方に荒垣および鳥居を立てたと「吾妻鏡」は伝える。北条正子や実朝も参詣したとある。

 商業地の規制を建長三年(1251)と文永二年(1265)にも実施される。「大町、小町、魚町(甘縄神明付近)、穀町(米町)、武蔵大路(扇ガ谷つの奥)」、須地賀江橋(横大路と小町大路の交差付近)、大倉辻」に町の設置が許可されている。当寺、甘縄神社の場所は魚町付近で、魚損が近くにあった。甘縄の由来は、海が近く「甘」海女(海人)、「縄」は漁をする際の網と言う説もある。

 社頭一帯は鎌倉時代初期の武将安達盛長の屋敷跡で、頼朝の挙兵以来の重臣で盛長は頼朝に重用された。後の執権北条氏とも姻戚関係となり、安達氏の基礎を築いた。石段下に「北条時宗公産湯の井」がある。これは時宗の祖母松下善尼が安達氏出身であることから伝えられている。

      
 

 この通りは鎌倉文学館がある為か、文化的な漂いを放つ。社殿の裏山は神輿ヶ岳(見越ヶ嶽とも言う)と言い、古くから歌に詠まれている。「都にははや吹きぬらし鎌倉の神輿が崎秋の初風」宗尊親王(むねたかしんのう)が読んだ。『瓊玉集』(けいぎょくしゅう)の一首である。昭和になり、第二次世界大戦後、多くの文豪が鎌倉に居を構えた。すぐ近くに、川端康成記念館があり、昭和二十一年、二階堂から長谷の甘縄神明社の傍に引っ越す。二階堂の家は詩人乃蒲原有明(かんばらありあけ)の持ち家だった。長谷の家を「山の音」に描いている。その谷での静寂な夜の表現は、川端文学の心地よさと、美しさを表現している。川端は昭和四十七年(1972)に自ら命を絶つまで、ここに住んだ。また、少女小説家の吉屋信子記念館も近くにある。

由比ヶ浜大通りは日曜祝日より、平日歩いたほうが楽しい。色々なお店が平日開いているからだ。お洒落な装飾品の店、生活に必要なお店、飲食店、鎌倉の人々の生活を少し垣間見る事が出来る。六地蔵の前を通り、私はいつも鎌倉駅まで歩いて帰る。