鎌倉散策 東慶寺 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 二十四節句の小満を迎えた。命が次第に満ち満ちて行く頃の事。

末候に「麦秋至る。麦が熟して、収獲するころ。実りの季節を、麦の秋とも呼びならわした。

家族も大阪に戻り、これから鎌倉での生活が本格的に始まるようである。

 

 先週出かけた東慶寺に再度、岩たばこの花を見に行った。先週やっと実が出ているようであったが、咲き始めた。

本堂の裏手の岩がらみはかなり咲きだしていた。北鎌倉で明月院のヒメアジサイと東慶寺の岩たばこは有名である。

私の知る限り、朝比奈切通し、化粧坂切通し、海蔵寺、成就院、報国寺、薬王寺そして東慶寺で見ることができる。

 私の好きな寺の一つ、東慶寺について語らせていただく。

東慶寺は別名として縁切寺よく知られている。松岡山東慶総持禅寺。

宗派は臨済宗円覚寺派。開山は覚山志道尼(かくざんしどうに)。開基、北条貞時。創建弘安八年(1285)。

鎌倉尼五山の中で現存する唯一の寺である。鎌倉幕府八代執権北条時宗の没後、夫人覚山尼(拡散に)により弘安八年に開山された。

別名「縁切り寺」「駆け込み寺」が有名で明治三十五年まで尼寺であった。

他に鎌倉尼五山は大平寺、国恩寺、御法寺、善明寺があったが今は現存しない。その後、円覚寺派に属している。

 

 「駆け込み寺」と言われた理由に三人の女性があげられる。覚山志道尼、後醍醐天皇の姫宮の用堂尼、兄の護良親王の菩提を弔うため、用堂尼の墓が境内にある。

最後に豊臣秀頼の娘天秀尼(千姫の娘ではなく側室から生まれている)である。大阪城落城後、戦姫の養女になり、東慶寺に入寺された。

家康からの望みを聞かれ「開山より旧令の寺宝(縁切寺法)が断続無く相立てば、これに過ぎたる願いはない」と答えたといわれる。

駆け込み寺と言われる女性救済の寺の寺法は、覚山志道尼のころからと言われているが、資料は江戸時代になってからの資料が現存する(松岡宝蔵に残され、その多くは国重要文化財の指定を受けている)。

女性が離縁することが許されなかった時代、この寺に駆け込み、三年修行すれば妻の法から離縁ができるという特権があった。

しかし、残された文献によると、江戸時代に「松岡役所」と呼ばれる寺役所が境内にあり、駆け込んだ女性はそこで取り調べを受けたといわれる。

近くに数件宿があり、取り調べの際、女性と男性は別宿に泊まらされた。

駆け込み寸前でとらわれた女性は身に着けたものを寺に投げ入れれば、寺に入ったことみなされ、駆け込みが成立する。

離婚に至る前に当人同士が話し合いを行い、復縁をするように寺が働きかけたようである。現在の家庭裁判所のような場所であったようでもある。「松ヶ岡男を見れば犬が吠え」「松が岡男の意地をつぶすところ」。

井上ひさし「東慶寺花だより」を映画かした、大泉洋主演の「駆け込み女と駆け込み男」は面白い。

 

 北鎌倉から鎌倉に向う道沿いにある。歩いてすぐで、私の大好きな寺である。

石段を上り、山門をくぐると、まっすぐに伸びる道の向こうに阿弥陀像が置かれている。本堂は本釈迦如来像を祀る。隣の水月堂に水月観音が祀られている。水月観音菩薩半跏像(県指定文化財)は室町時代前期の作である。作者は不明である。その姿は非常に美しく、小さな玉眼の精巧さ、うつむきがちの目線で、水面を見つめ月を望む表情は美しく、慈悲の優しさを感じさせてくれる。左右によって表情が違っているのが窺える。また、ラフなスタイルで珍しく裳の表現、足先の爪まで、表現が美しい。非公開だが、事前予約すれば特別拝観が可能である。東慶寺を訪れる際は、ぜひ拝観していただきたい。

 

 東慶寺も花の寺である。素朴な季節ごとの演出が私の好みである。

春は十二単、カルミヤ、しだれ桜

初夏は花しょうぶ、岩がらみ、岩たばこ、アジサイ

夏は桔梗、なでしこ

秋は夕顔、彼岸花、紫苑、秋明菊、野葡萄、竜胆

冬は紅梅、白梅、福寿草,水仙

四季それぞれに伺い、季節の静かな移り変わり感じさせてくれる寺院である。

 

東慶寺(とうけいじ) 鎌倉市山ノ内1367 ☎0467(22)1663 8時30分~7時(11月~2月は16時) 拝観料200円(松ヶ岡宝蔵は9時30分~15ぞ30分月曜休館 拝観300円)