鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 建長元年(1249)、『吾妻鏡』は、この年の記載が欠落しており、建長二年正月からの記載で始まっている。

 建長元年の情勢は、京都における公卿・公家の日記に頼る所になる。『岡谷関白日記』二月一日に、京都で後深草天皇の閑院内裏が焼亡したと記す。この閑院内裏は文治元年に源頼朝が修造に関わり、健暦年間には源実朝が知行国主で、北条義時が国守であった相模国を造営料国として、大内裏と同規模の内裏が、建保元年三月六日に幕府により新造される。それ以来、大内裏に代わり内裏として用いられてきた。『岡谷関白日記』では、さらに三月二十三日には姉小路室町より出火し、三条以南、八条以北、西洞院以東、京極以西が焼亡し、火は加茂川を越えて、三十三間堂で知られる蓮華王院まで及んだ。『百錬抄』によると、幕府は四月四日に閑院造営について奏聞し、五月二十七日には千葉亀若丸(後の千葉頼胤)が、健暦の造営に際しては「宮御方侍」の造営を担当したのに対し、今回の「西対」の造営を命じられたのは先例に違い、負担も重く耐えられないと訴えていることが、『中山法華経寺所像双紙要文裏文書』、『鎌倉遺文』七〇七九号に記されている。この事から閑院内裏造営の負担分配も同年五月二十日に頃には行われていたと考えられる。また、御家人役負担のあり方として蓮華王院造営は用途金を賦課し、閑院内裏造営は建物ごとに担当を定めた方式をとっている事も注視される。同時に幕府は閑院内裏造営などの負担分配の基礎資料として六波羅探題を通じて、西国に対しの太田文(土地調査報告書)作成を命じている事が、『久米田寺文書』嘉禄三年十一月日快申状、『大日本史料』第五編、建長元年六月五日条で見られる。翌年の『吾妻鏡』建長二年三月一日条には、最終的な工事分担表作成されており北条時頼が内裏の中心となる紫宸殿を担当する事が記された。

 

 『将軍執権次第』、『帝王編年記』の六月十四日には、将軍頼嗣が左近衛中将に、北条重時が相模守から陸奥守に、北条時頼が左近衛将監から相模守に任じられている。相模守は、北条義時・時房・重時と北条一門の中核となる人物が歴任し、時頼以降は得宗が任命される事となる重要な官職となった。この時の官位は時頼が従五位に対し、重時が従四位であるため、時頼の執権としての立場を強化させるために、重時が時頼に譲ったと考えられる。

同年十二月には、幕府の訴訟機関として引付が設置される。『関東評定衆伝』には、十二月九日に北条正村・大仏朝直・北条資時の三人が一番から三番の引付頭人に任じられ、同十三日には引付始が行われた。引付は御家人の関与する訴訟を専門に扱い、後には、諸無沙汰と呼ばれる所領・諸職を巡る訴訟を専門に扱うようになる機関である。

 北条時頼は、この年に北条重時の娘・葛西殿を継室に娶ったと推測され、時頼二十三歳、重時娘・葛西殿十七歳であった。そして建長寺の建立が始められている。

 

 『吾妻鏡』建長二年正月一日には、埦飯は相州(北条時頼)の差配で行われ、御剣役には前右馬権守(北条正村)、御調度には秋田城介(安達義景)、御行縢は出羽前司(二階堂)行義が行っている。二日の埦飯は足利左馬守入道(義氏)の差配で行われ、御剣役には武蔵守(大仏)朝直、御調度には宮内少輔(足利)泰氏、御行縢は佐渡前司(後藤)基綱であった。三日の埦飯は奥州(北条重時)の差配で、御剣役には尾張前司(名越)時章、御調度には陸奥掃部助(金沢)実時、御行縢は小山出羽前司長村であった。

 建長二年正月二十八日、北条時頼は少々御病気で、「黄疾」を煩われた。黄疸のような症状が出たと思われる。翌二月十二日に鶴岡八幡宮で祈禱が行われ、十八日には時頼が出仕した。「今となっては大事はないであろう」と記されている。

 同月二十六日には、将軍家(藤原頼嗣)の文武の稽古のため北条時頼は和漢の学問には中原師連、清原教隆を弓馬の練習には安達義景、小山長村、三浦光盛、武田五郎、三浦盛時等を常に御所中に祇候させて召し従うよう書状にて諫言している。また人々の子息のうちで学問を好み、弓馬の才のある者を撰び、同学として祗候するよう内々に命じている。

 

 同年三月一日には、閑院殿の造営の雑掌について、京都に進覧されるための割り当て表の目録が記された。各建物、平門、渡籠、船、築地の樹々等と細かな割り当てである。建長二年の幕府は、三月十六日鎌倉の保奉行に命じて浮浪人の追放を命じ、四月二日には、引付の手続きの簡略や開始時刻等を定めている。また四月二十日には鎌倉中の庶人の武装を禁止した。四月二十九日には、雑人訴訟に紹介状の提出を義務付けている。また、六月には昨年山内・六浦から鎌倉に通じる道路が整備されたが、土石がその付近を埋めたために整備が行われた。同月十日には、百姓と地頭との相論した際、百姓の主張に誤りが無ければ、妻子・所従やその他の資財・雑具は百姓に返却するように、また、田地と住まいとその身を安堵するかは地頭の判断にすると定められる。また懐妊後の離別について、出産した男児は父に付すよう雑人の訴訟について式目追加法として定められた。九月十日には諸人の訴訟の御成敗について、御成敗式目の条文に従う式条順守を引付、問注所等に命じている。九月十八日には、雑人訴訟について、審理が行われる際に、「虚偽があれば十貫文を橋の費用に充てられる」との請文をあらかじめ提出させて審理するように定められたという。十一月二十八日には浮浪人が双六と称し、四一半(丁半博打の様なものと推定される)を好み、博打ばかりをしていることについて、とりわけ陸奥・常陸・下総の三カ国で特にこの行為が盛んであるとの風聞に基づいて博奕はすべて禁止するように命じられた。また翌二十九日には、既に鷹狩りが源頼朝の御事から禁止されていたが、それに背いて日々の業としている者がおり、鷹狩りによる諸所の喧嘩・狼藉の原因となっているため、鷹狩りについて停止するように諸国の守護人に命じている。この年には、鎌倉やその周辺の東国の国々の治安の安定と訴訟の迅速化に取り組む諸法を発した。

 

 建長二年八月ニ十七日条に、時頼室の懐妊が記され、安産祈願が行われている。後の八代執権となる北条時宗である。それ以降は懐妊に対する関連記事化多く記載された。十二月八日には、大倉薬師堂に参詣妻室室の安産を祈る。同月十三日には時頼妻室の着帯等が行われた。

 同年十二月二十九日、奥州(北条重時)・相州(北条時頼)が右大、将家(源頼朝)・右大臣家(源実朝)・二位家(政子)・右京兆(北条義時)の御墳墓の諸堂を巡礼し、建長二年も平穏に終わろうとしていた。  ―続く