謹賀新年 あけましておめでとうございます。
昨年の七月から始めました『曽我物語』は、上巻をあと四回で終わりそうです。当初、昨年度中に上巻を終えて信念から下巻に入ろうとしていましたが、思惑は外れ越年してしまいました。下巻は上巻とほぼ同じ量なので、今年の七月には終える事になると思います。『曽我物語』の現代訳を自身で決めた事でありますが、今本当に大変な事だと実感しています。今ようやく折り返し地点に入り、これからがようやく物語の真髄に入っていきます。
『曽我物語』の現代訳を終えた時点での達成感はいかなるものかと考えるとわくわくしています。それも、閲覧していただき、いいねを頂いた事で元気づけられています。本年度も何卒よろしくお願い申し上げます。
呉越の戦ひの事(一)
そもそも、五郎時致が富士野で、
「会稽の恥を清む(晴らす)」と言う由来を、詳しく述べると、昔、異国(中国)に呉国・越国とう隣接する国があった。呉国の王は、闔閭(こうりょ:中国春秋時代の呉の第六王)の子にて呉王夫差と言い、越王の王は、大帝(弁常:べんじょう)の子にて越王句践(こうせん)と言った。そして、この両王は、争い、戦う事は絶えなかった。ある時は、呉王を滅ぼし、ある時は越王を退治して、ある時は親の敵となり、ある時は子の敵となった。犠牲ははなはだしく、累年に及んだ。ここに、越王の臣下に、范蠡(はんれい)という武勇の優れた者がいて、越王句践は彼を招き寄せて、言われた。
「今の呉王は、まさしく親の仇である。これを打たずして、いたずらに年を送り、嘲りを天下に残す事は、父祖の恥を九泉の苔の下に恥じる事で、恨み晴らしたい。それで、越国の兵を集め、呉国へ攻め込み、呉王を討ち滅ぼして、父祖の恨みを報おうと思う。汝は、しばし国に留まって、社稷(しゃしょく:天子や諸侯が祀った土地の神〔社〕、五穀の神〔稷〕を言い、転じて朝廷または国家を指す)を守れ」と申された。
越王句践の言葉を聞いた范蠡が申すには、
「しばらく私の考えで、この事態を推し量りますと、今の越の力では、呉王を滅ぼそうとする事は難しいでしょう。その故は、まず、両国の兵を数えると、呉国は二十万騎があり、越国には僅か十万騎です。小を以って大を敵としてはなりません。その上、呉王の臣下に、五子胥(ごししょ)という、智深く、才高き事のみならず、人材を作る事に優れた勇士がいます。彼らが居るため、呉王を滅ぼす事は叶わないでしょう。麒麟は、角に肉があり、勇猛な形を現わさず、潜龍は、三冬にうずくまり、一陽来復(冬が去り、春が来ること)の天を持ちます。しばらく兵を伏して、武を隠して時を待つことです」と諫めれば、越王は、これを用いず、多いに怒って、
「戦の勝負は兵の多少によらず、ただ時の運により、また大将の謀事による。そうして、呉と越の戦いは度々に及び、雌雄を決する事、誰もが皆、ことごとく知る。 次に五子胥(ごししょう)が、あらん限りは叶わないと言うが、我が終に父祖の仇を討たずして、恨みを報いる事は無いだろう。いたずらに五子胥の死を待てば、我にも生死の限りある。老少定まらず、五子胥と我が、いずれ先に死ぬかは分からない。これ、全て汝の愚案なる故である。我は既に兵を集めるのを決めた事は呉国へ伝わるだろう。事が延びれば、かえって呉王に滅ばされる時に、悔いても益はない」と言って、越王十一年二月上旬の頃に、十万騎の兵を統率して、呉国へ攻め寄せた。
呉王はこれを聞き、
「小敵を嘲るべき事でない」と言って、自ら二十万騎の兵を統率して、呉と越との国境の夫椒県(この県名は無いが、江蘇省語圏の西南に太湖の中に椒山を「ふしょう」と読んだと言う)という所に向かい、会稽山を後ろに置いて、前には古仙という大河を隔てて陣を取った。敵を欺(あざむ)くために、三万騎を出して、残る十七万騎を後ろの山に隠し置いた。越王は、夫椒県に臨んで敵を見ると、わずかに二三万騎に過ぎなかった。思わず小勢であると、十万騎の兵をこの地に駆けださせた。筏(いかだ)を組み、馬を渡す。呉の兵は、かねてより敵を難所におびき入れて、残さず討とうと決めていたので、わざと一戦に及ばず、夫椒県の陣を引き、会稽山に引き籠った。越王の兵は勝ちに乗じて、逃げる敵を追うこと三十余里であった。自軍の次の陣を敵軍の一陣に合わせ、馬の息が切れるほどに追いかけた。呉の兵は、思っていた難所に敵をおびき入れて、二十万騎の兵を四方の山より打って出た。越王句践を中に取り囲め、一人も逃さないと攻め戦う。越の兵は、今朝の戦いで遠方から馬を駆けさせたので、馬人ともに疲れた上、小勢であったために、呉国の大勢には囲まれて、一箇所に内寄り控えた。進んで戦おうとすれば、敵は険しい所で踏みとどまり、皆で矢を引きしぼって待ち構えている。退いて敵を追い払おうとすれば、鉾先支えて隙が無かった。
しかしながら、越王句践は、強固な布陣を破り討つ事は、大勢の兵であったため、事ともせずに、この大勢の中に駆け入った。十文字に駆け破り、追い廻して、一所のから三所に別れ、四方を払い八方に当った。百度千度の戦いに勝劣は無かった。そう云えども、多勢に無勢で叶わず、終に越王は打ち敗けて、三万騎に打ちなされた。そうして、越王は絶えずして、会稽山に上がり、打ち残された勢を見ると、僅かに三万騎になっていた。馬が離れ、矢種はことごとく尽き、鉾が折れ、一戦にも及ぶ事が出来なかった。隣国の諸侯は両軍の間で勝敗を窺って、どちらとも勝敗が見えずに控えていたが、呉王の軍が優勢と見てことごとく、呉王の勢力に加わった。今は三十万騎になって、この山を囲む事、稲麻竹葦(とうまちくい:色々な植物が同じところに群生する)の様であった。越王は叶わないと思い、天幕の中に入り兵を集めて申した。
「我、運命は既に今、この囲みにて尽いた。この上は腹を斬る。これは全く戦の咎にあらず。天は、我を滅せり。恨むべきにあらず。ただ范蠡が諫めた事を聞き入れなかったことが恥ずかしい。したがって臣下の志ざしに報いることが出来なかった事が真に無念である。さりながら、臣下から受けた重い恩義は、生々世々に忘れる事は無い。とても、これほどの志なれば、夜が明ければ、もろともに囲みを出て、呉王の陣に駆け入り、屍を陣営の軍門に晒し、再生に報ずべし」と言って、鎧の袖を涙で濡らせば、兵も、一途に決心した様子を見せ、今までの異心無き意が、真に浅からずと思われた。そうして越王(匂践)の子・王鼫与(わうせきよ)とて、八歳になる最愛の太子がおり、呼び出して、
「汝は、未だ幼い。敵に生け捕られて、憂き目を見る事は、口惜しい。汝を先立てて、安心して討ち死にて、九泉(きゅうせん:幾重にも重なった地の底から人が死んだのちに行く世界)の苔の下に埋める。三途の露の底の冥途までも、父子の恩愛を捨てじと思う。急ぎ殺す」と云えると、太子は何心もなく動じる事も無かった。
※呉・越ともに春秋十四列国の一つで、呉は中国の周時代に太白が建国し、呉(蘇州)を都とした。紀元前六世紀ころから強国となり、春秋時代に楚・越と抗争する。一時、中原に覇権を争った前四七三年に、越王匂践に滅ぼされた。越は、夏の少康の庶子が封ぜられた国を起源とし、侯の子として生まれた弁常(匂践の父)が領土を拡大して、会稽(浙江省紹興県)を都として王を称して浙江地方を治めた。弁常が逝去すると、太子匂践が跡を継いだ。呉王・夫差の父の闔閭は、前四九六年、喪中の越に侵攻し、その戦いで負った傷がもとで破傷風に罹り没した。闔閭の跡を継いだ夫差は、越への復讐心を滾らせ、伍子胥の補佐を得て呉を建て直し、これを妨害せんと出撃してきた。そのまま越に攻め込んで、越を滅亡寸前までに追い詰める。しかし、臣下の伍子胥の諫めに従わず匂践を許した夫差は、前四七三年、枯蘇城に包囲されて自害した。呉に勝利した匂践は、越の都を瑯琊(現在の浙江省連雲港市海州区)に遷す。さらに諸侯を会盟して中原の覇者となった。匂践は、春秋五覇の一人に数えられるが、前三三四年に越は楚に滅ぼされる。伍子胥は楚の人で、父兄が楚の平王に殺され、呉王の闔閭に仕えて楚に復習し、さらに夫差に仕えたが、勾践を殺害する諫言が容れられず自死した。
「会稽の恥」とは、勾践が范蠡の進言に従って夫差に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れた。勾践は呉に赴き夫差の臣下として仕えるが、范蠡の工作により程なくして越に戻ることになる。 勾践はこの時の悔しさを忘れず、これを「会稽の恥」と言い、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを眺めて呉に対する復讐を誓った。前述の夫差と合わせて臥薪 嘗胆(がしんしょうたん)という故事の元となった逸話である。
前四九四年に范蠡(はんれい:越の政治家、軍人。匂践に仕え匂践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者であるが、その後、商人となって巨万の富を築き、後に陶へ行き陶朱公と称した)の奇策により匂践を会稽山に破った。
―続く―












