王昭君(わうぜうくん)の事
昔、漢の王昭君と申す后を、湖国(ここく:北方の異民族の匈奴)の夷に取られた時は、王昭君が湖国へ赴いても、名残の涙は尽きることが無く、嘆き悲しみながら帝へ言葉を送られた。
「自らが敷きし褥(しとね:座るときや寝る時に敷く敷物)に枕にして、我が姿を写しとどめて敷き給へ。夢に来たりて会ふべし」と約束される。漢王は悲しんでこの褥を枕にして、泣き伏していると、夢ともなく、また現実ともなくやって来て、折々会いに来る。この昭君が、故国への道すがら、涙に曇る四方の山、野や里も分けかねて、袖の乾く間もなく涙が流れた。思いの余りに、もとの住家を顧みて、
「蒼波道遠くして、はかう山深し(青い波が打ち寄せ、道は遠く、雲が千里の果てまで続く、白い霧の立ち込める山は深い)」と詠みつつ、漢宮万里の(故郷の間の都から隔てた)旅の空、今の思いがわかるだろう。
佐殿(源頼朝)も、若君が失われた。御心、かわいい子を失い、かなわない別れの袖に濡れる涙は、婦女の寝室で体を重ねられることは限りなかった。
さて、北の方との十分に満足することなく、別れの名残惜しい有様は、中国の玄宗皇帝に楊貴妃と申す后を思い出す。安禄山の戦いの為に奪われ、ついに馬嵬原(馬鹿伊原)にて、楊貴が殺害され失った。 皇帝の悲しみは、その思いに絶えず、蜀(しょく:中国四川省の古名)の神仙の方術を行う導師に仰せになり、楊貴妃の魂のありかを訪ねられた。導師は神通の術で、仏教でいう、全ての世界を訪ねて、ついに蓬莱宮にたどり着いた。ここは、浮き雲が重なり合い、人が通えるところではない。そして門に来てみれば、太真院(大審院:楊貴妃の道号)と打ち立てる額があった。ここはすなわち、神仙の住家とされる蓬莱山の宮殿に玉姫の住家と思われ、重い扉を叩くと、内より頭に二つのあげまきを結った童女が二人出て来た。
「何処から来られ、いかなる人ですか」と問われると。
「唐の天子の使いで、蜀の導師です」と答えた。
「そうであるならしばらくそこで待ちなさい、玉姫にこの事を申します」と言って内に入っていった。処は、雲海が一面に広がり、神仙の住む空は日が暮れようとしていた。まことに梢然(しょうぜん:ひっそりと)待つつところに、玉姫が出て来られた。この方が楊貴妃であった。左右に童女七八人が付き従い、導師に笏を手にして、状態を前にかがめて礼を取った。皇帝の安寧を問われると、導師はこまごまと答えた。言い終わると、玉姫は、会った印として、かんざしを抜いて導師にせた。その時導師は、
「これは世の常にある物です。確かな証拠にはなりません。皇帝にご覧いただくために密かに約束した事はございませんか」と尋ねると、玉姫は少し考えてから、
「安禄山の乱がおこった天保十四年、秋七月の夜、天にありて願わくは、比翼の鳥(雌雄の各一目一翼で常に一体となって飛ぶ想像上の鳥)、地にあれば願わくは連理の枝(一つの木の枝が他の木の枝と連なって木目の相通じるようになった枝)、天地が永遠に変わらぬように、物事がいつまでも続く様にして尽きる事が無いようにと話した。人はこれを知らず、御話した事に御疑いはないでしょう」と言って玉姫は去られた。導師帰り参り、皇帝に奏聞した。
「この様な事がございました。導師に誤りはございません」と言って、空を飛ぶ車に乗って我が朝尾張国に飛び渡り、八剣大明神(熱田神宮別宮)に現れた。楊貴妃はもとより熱田明神の化現にてあらたられた。蓬莱宮と申すのも、すなわちこの熱田の社とされる。兵衛佐殿(源頼朝)は、若君や、北の御方の行方をも、知らせられる者もおらず、慰める心を持つ者もいなかった。
(熱田神宮)
頼朝、伊東を出で給ふ事
こうして頼朝は、行末がどのようになるかと思い暮らしているところに、入道は、それ以上に、佐殿を討ち取ろうとして郎党どもを集めた。ここに祐親の次男伊東九朗祐清が、密かに佐殿の所に参り、申すには、
「親であります祐親こそ、物狂いになり、君を討とうとしております。何処かに密かにお逃げ下され」と申して、頼朝が聞くと、「『長寿王本紀経』による長寿王が殺害されても知らされる事無く、微笑みを浮かべて刀を抜くのは今の世の習いである。人の本心を知りたければ、君臣父子の意を以て恐れなければならない。まして討とうとする者は親であり、告げて知らせる者は、その子である」。いずれにせよ疑わしく思われた。きっと我をだまそうとした事で、気を許すことは無かった。
「本当に思いもよらない事ならば、何処へ行って逃れたら良いのだろう。しかしながら、理由なく自害するには及ばず。人手に懸かるならば汝、早く頼朝の首を取って父入道に見せよ」と仰せられると、祐清は承り、
「仰せの如く、お話しできない人の心にてあります。継母により、父と子の仲を裂くために、継母が蜂を取って、自分衣の袖に蜂を入れて、子にそれを取らせる事で、子が母を犯そうとしていると疑わせたように、親子の心違えしも、偽るのは巧みです。君の思われる理は、真の誠意とお思いにならないのですか。異常の知らせは、最もお疑いになるのは理です。かたじけなくも不忠でございますが、申し上げますと、東国伊豆山大権現はニ所大明神の罰を蒙り、戦いにおける神仏の加護が尽き、祐清が命を御前にて果てましょう」と申すと、頼朝は、それを聞いて大いに喜び、
「このように告げ知らす志であるならば、いかにも良い様に計らえ」と仰ると、祐清は承り、
「君の近くにおられる藤九郎(安達)盛長、弥三郎成綱(佐々木盛綱の誤り)を、今もいるように暫く此処にいるように偽装されますよう。君は馬の大鹿毛に乗られ、馬引きの鬼武(おにたけ)と言う者一人に馬の口を取らせて北条へお忍び下され」と申し置き、
「すぐに討手が参りましょう。長らえていてはなりません」と言って、急ぎ御前を立った。
こうして佐殿は、密かに夜にまぎれて出でていかれた。頃は治承元年(1177)八月の下旬のことである。露吹き結ぶ風の音、わが身一つに物寂しく、野辺に集まり鳴く虫の声は、折から特に哀れであった。有明の空に残る月が未だに出ているのはどういうわけか分からないが、道を変えて田面(たのも)を伝い、草を分けつつ、道すがら神仏に祈り、誓いを立てるには、
「南無正八幡大菩薩の御誓に、我が末代に源氏の世となって、東国に住みして、東国の野蛮な夷を平定することを願う次第である。それなのに、源氏の一族が衰亡し、正しい血統が残るのは、ただ頼朝だけになってしまいました。今、運を開かなければ、誰が家を再興させるのでしょう。世は既に、道徳の薄れた人情軽薄な末世にて、人の子孫はございません。早く頼朝が計り知れない神仏の加護に任せ東夷を従えて、喜悦の眉を開かして見せましょう。攻めて当国伊豆の国の主となって、永く本望を遂げさせていただきたい」と、御祈誓は、一晩中行った。大菩薩に通じるには、幾ほどなくして、御代で叶うのか。そうして、北条四郎時政の下に入られた。ひたすら彼を打ち頼みて、年月を送られた。 ―続く―