鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

祐信、兄弟を連れて、鎌倉へ行きし事

 そうして曽我祐信は梶原諸共に兄弟二人と連れ立って、馬を早める事も無く、夜に入って鎌倉に着いた。今宵はすっかり夜が暮れてしまったので、梶原景季の館に留め置かれた。祐信は、二人の子供の近くにいて、今宵ばかりとは思い、名残惜しく思う。名残の夜が次第に明けて行き、くまなく軒に月の明かりが漏れ、思いの涙に掛け煙り、鳥と同じ様に泣き明かし、心の内には非常に悲しく思われた。早朝に、源太左衛門(梶原景季)は御所へ参ろうとすると、祐信は、既に門口まで見送りに参っており、

「彼らの事は、ひたすらお頼み申します。如何にも良いようにお申し下され、郎等が二人いるとお思い下され」と真に思い入った様相は哀れに思い、源太も不便に思えて、

「実子でないのに、貴殿は何事にこれほど言い表すのだ。人の親の心は闇にあらねども、子を思う道に迷ふとは(藤原兼輔〔紫式部の曾祖父〕、後撰集・雑一:親の心は闇のように暗い分けではないけれど、我が子を思うと、どうすれば良いのか分からなくなってしまう)、現に理と思えて、景季も、子供を多くも持つ者であるが、少しも人の上とも思っておりません」と言って、人目に付かないように涙を流した。再び景季は、

「心に及ぶ所は、なおざりにしておりません。安心しておられよ」と言って出て行かれ、頼もしく思われた。

 

兄弟を梶原請ひ申す事

 その後、梶原景季は御前に畏(かしこ)まり、頼朝が来られて、

「昨日は、祐信等は参上しなかったぞ。異議を唱えるような状況に有るか」と景季に問うと、

「どうしても惜しまざるを得ません。昨夜、景季がもとに連れて参り、夜が更けてから、明けるのを待っていました。それにつきましては、二人の母や、曽我太郎が嘆き、申すに及ばず。可哀そうで見るに忍びない様子を見ました。同じ仰せにおいて、戦場で一命を捨てることは、意に介するほどの事とは思いません。このような困難な事はございません」と申すと、頼朝は聞き及び、

「さぞ母も惜しんだだろう。同じ科(とが)とは言いながら、いまだ幼い者共である。嘆くだろう」と仰せられると、景季は、この言葉に縋(すがり)り付いて、畏まって申したのは、

「この様に申す事、怖れ多い事でございますが、母の思いが余りにも不便に思う次第です。今は幼き者共にてございますので、成人になるまでは景季に預けさせていただきたく存じます」と申すと、頼朝が聞き及び、

「汝が申すところ、理と思うが、伊東入道にむごい仕打ちを受けた事を聞き及んでいるだろう。三歳の我が子を殺されて、その上に、女房まで取り返されて、嘆きを被った上に恥を受け、その上、由比の小坪似て頼朝を討たんとした恨みを、一つ一つの出来事が喩えようもない。せめて、伊豆国一国の主なればと、夜が明けて日が暮れるまで祈り、伊東に報復しようと願った事だ。そうすれば、あの者の末裔であると言う事で、人数に入らない乞食や非人であっても、生かしておこうとは思わない。まして、彼らは、まぎれもなく孫である。しかも嫡孫である。急いで誅罰する事で、殺された我が子の後世を弔うことが出来る。頼朝を恨んではならない」と仰せられ、重ねて申されるには及ばず、御前を退出した。頼朝は、

「直ちに由比の浜にて殺害せよ」と言った、命を受けて景季は宿所に帰る。

 

 曽我祐信は、景季の帰りをまだかと待ち受けていた。景季が帰ると、祐信は、

「さて、二人の子の命は如何に」と問うと、

「案の定、再三申したが、亡き伊東入道殿の不忠を、始より、終わりに至るまで語られ、殺された若君の事を思えば、あの世で思われる事もあり、二人を斬って若君の御追善にいたすようにとの御考えで、力は及びませんでした」と言うと、祐信は、頼みにしていた事も力尽き果てて、

「今は、かなわない様ですか」と言って、二人の子供を近づけて衣服を整え、頭の両側面の髪を払い整えて、

「二人とも、いかなる報いにより、乳飲み子の頃に父が先だたれ、家に伝わる代々の所領を離れ、いまだ齢は十五、十三にならず、斬られるのみにありません。母にもまた、悲しい思いを与える事など不思議な事です。祐信も、汝らに先立たれて長い年月を過ごすのか。出家して、後世をねんごろに弔ってやります。生まれてからの因縁は薄いですが、来世においては必ず極楽浄土の同じ蓮の上に生まれましょう。」と、涙に咽んだ。子供はそれを聞き、

「祖父の行いにより、我らが幼いながら許されず、斬られる事は力及ばず。しかしながら、祐信殿の受けた御恩はありがたく思います。出家遁世は決してあってはなりません。母の御思い、いよいよ重くなります。母を慰めていただきたく。それ以上何の望みもございません」とだけ言って、泣くより他は無かった。景季の妻女も女房達も引連れて中門に出て、物越しに彼らの言葉を立ち聞いて、

「実に相当な者の子と聞いていた。立派に落ち着いて大人のように言う言葉である。よそで聞くにも哀れで無慙であるのに、どの様にして今まで養い育てたのか、母や乳母のことを思う。肉体的、精神的、知能的に劣る子さえ親は愛おしく思うのが倣(なら)いである。武士の子が、七歳になって親の仇を討つと申し伝えるのも、彼らが大人びている事により、思い知らされた」と言って、むせび泣くと、近場にいる者も、そうでない者も皆袖の袂で涙をぬぐった。

 

※「由比」は現神奈川県鎌倉市内、「小坪」は逗子市内の海岸で、伊東祐親がこの地で頼朝を討とうとしたかは未詳で、資料は存在しない。治承四年八月の頼朝挙兵時に武蔵国の住人である畠山重忠が平家方に付き頼朝と敵対した。重忠は平家方として頼朝討伐の為に武蔵国から相模国に入る。また、頼朝に加勢しようとした三浦党の武士等が、大雨により増水した丸子川(酒匂川)を渡れず、同月二十四日に丸子川畔で石橋山の合戦に敗れて頼朝の消息が経たれたた事を聞き、引き返した所、この由比・小坪で畠山重忠と出会い合戦を交えた。畠山重忠は、この戦で郎従五十余人が梟首され武蔵国に退却し、三浦党は小坪を回り三浦に帰参している。

武蔵国の国司には、元暦元年から平知盛が就き、仁安元年(1166)十二月までそれを勤めている。その後、平知重が就くが、再び仁安二年(1167)二月から同年十二月まで再任した。その後、権守として三善盛俊が就き、治承四年(1180)九月に知盛の実弟の知度が就く。そして、知盛の子知章が寿永二年(1183)七月から八月にその位に就いている。平家は東国を重視していたことが伺われるが、平知盛は、元暦元年(1160)に国司になったのが九歳で、再び着任したのが十六歳の時であった。彼らは、現地に着任することなく、目代以下、その地の有力者たちを在庁官人として経営まかせている。それにより、開発田が増加して、在庁官人の有力者の勢力を強めた。そして、有力者の勢力は、て良好関係を築き、その恩義が厚く、平家方に付いたとされている。

 

 ―続く―