賢人二君につかへずが事
さてもこの女は、時致の歌を他の者たちにも見せて、申すには、
「昔も、去る例(たとえ)あり。『賢人二君に仕へず』と申して、中国に、潁川(えいせん:中国湖南省にある川)と言う川があります。巣父(さふ:中国の伝説上の高士で、尭の頃の人で、樹上に巣を作って住んだという)と言う者が、黄色の牛を引いてきたところに、許由(きょゆう:中国の伝説上の高士で、字は武仲)と言う賢人がこの川の端に居て、左の耳を洗っていました。巣父はこれを見て、
『汝、何により、左の耳ばかりを洗うのだ』と問いかけると、許由は答えました。
『我は、この国のまさしく賢人と言われし者です。我が父、九十余にして老耄(老耄:限りなく老いぼれる)極まりなくなりました。我は、未だに幼少なり。されば、神拝・政(じんはい・まつりごと:神を祀る事と国を治める事)をみだりにして、ある甲斐なき身なれば、都を出ます。今まで聞いた事は、皆左耳の耳なもで、汚れてしまった。それを洗うのです』と言いました。巣父がこれを聞いて、
『さてこの川の水は、七日の間、濁ってしまう。汚れた水を飼いて(飲ませて)、益はない』と言って牛を引いて帰りましたが、また立ち帰り、
『さて汝は、何処の国に行き、いかなる賢王に頼よるのだ』と問いました。許由は、
『賢人二君に仕へず、貞女両夫に見えず』と答えて。終に首陽山(中国山西省の西南にある山)に入り、蕨(わらび)を取って過ごしたと申し伝へられた』。二心なきことは確かであります」。
貞女両夫にまみえざる事
ここで、化粧坂の遊女の言葉が続く、
「ここにまた、『貞女両夫に見えず(『史記』に由来する考えで、貞操堅固な女は二人の夫を持つ事は無い〔貞操を守る女性は、一度結婚したら祚別・離別しても二度と別の夫を持たない〕。また歴史背景的に女性は夫に忠実であるべきという価値観に基づいたものである)』という事の由来は、
昔、中国に「しそう(彰考館本に師具宗とあるが、未詳)」と言う王がいました。漢白という臣下を召し使われており、ある時、漢白が結んだ文を落としました。王が御覧になり、
『いかなる文だ』と、尋ねられると、
『私は宮仕に暇がなく、日数を送り、家にも帰っておりません。心もとなく、妻の下より来た文です」と申した。なお王は、怪しみ、
『見てみよう』との宣旨であったので、隠すべき事で無かったので、ご配慮を捧げました。
『この文を書いた者を呼び寄せよ』と仰せられたので、宣旨に背くことが出来ずに、この女を呼び寄せて見せて。王が御覧になり、無理やり傍に置き留めました。漢白は不安に思いましたが、叶わずに、女も王宮に住みました。心が晴れずに憂鬱で、ただ男の事のみを思って嘆いていると、王は不快に思い、時の関白の良白と言う者を呼び寄せ、この事をいかがしようかと尋ねました。関白の良白は、
『そうであるなら、あの女の夫の漢白を片端(かたわ:差別用語として、具完全な物、障害を持つ者)にしてしまえば。夫に対する思いは覚めるでしょう』と答えると、王は、
『そうしよう』と言って、漢白の耳鼻を削ぎ、口を裂いて見せました。女は自身にかかる憂き目が夫に掛かると、いよいよ歎き、臥して沈みこみ、悲しむと、王は又臣下に尋ねました。
『それならば、漢白を殺してみては』と申すと、やがて、深き川の淵に沈められた。女はそのことを聞いて、夫への思いが少し冷めて、申すには、
『願わくは、あの淵を見せて下さい』と言い、大王は直ちに、あの男の事を思い捨てたのだと喜び、大臣・公暁諸共に、あの川の淵に行き、音楽を奏で酒宴を催しました。その時に、この女は渚に出て、立ち止まって、この淵を見て、淵に飛び込み死んでしまいました。大王は、それらが起こった事に、あっけなく過ぎてしまった事が空しく、帰路に立った。
鴛鴦(をし)の剣羽の事
「こうして王は、還幸(王が行幸先から帰られる事)されて、なおさら、嘆きながらも月日を送られました。いくらか月日が経った後、この淵の中に、赤い石が二つ出て来て、抱き合いように見え、人々は、
『誠にこれは不思議な事だ。漢白夫婦の姿に違いない』と申しました、大王がそれを聞きつけ、なおも、生きていた頃の二人の面影が忘れがたく、また官人を呼び寄せ、あの川の淵に行幸されて、見て見られると、申すに違わず、まことに石が二つありました。不思議に思われたところ、その石の上に鴛鴦(おしどり)のつがいが飛んで来て、男女が睦まじく夜具に共寝するように見えた。これも彼らが霊魂なのかと御覧になり、そして、このおしどりが飛び上がり、両翼を広げて銀杏の葉の様な思い羽となって王の首を掻き落としました。王の体は淵に落ちて亡くなりました。それよりして、思い羽を剣羽(つるぎは)と言うようになったとの事です」。
五郎が情けを懸氏女、出家の事
「ところで、人々は、よく聞く様に『貞女両夫に見えず』とは、この漢白の妻女の事を申します。昔より、貞女と言うのは、二人の夫に相まみえず、如何なる憂き身においても、引く手数多に生まれてしまった。ただでさえ、自分達のような者が、愛欲に心を囚わられ、世間で言い伝えられているように、『己を知る者の為に、容(かたち)をつくろふ(『文選』四十一・報任少卿書一首〔司馬子長〕から、士は己を知る者のために用いられ、女は己を悦ばしむる為に容をつくろふ)』とは、『文選』の言葉です。我又、頼られる甲斐も無ければ、景季殿の真の妻女になるべき身でもございません。来世にこそ生涯最後に住み着く場所としたいと考えます。その上、歌は神も仏も聞き入れられ、慈悲を成される。そうして、花に鳴く鶯、水に住む蛙にも歌を詠みます。なおさら人として、如何にして、これに恥じるべきです」と言ってこの歌を詠んだ。
『数ならぬ心の山の高ければ奥の深きを尋ねこそ入れ(数ならぬ我が身であるが、心は山のように高いので、億深く尋ねて仏道に入ろう)』
『捨つる身になを思い出となるもの問ふに問われぬ情けなりけり(世を捨てる身になっても、やはり思い出されるのは問うにも問いかねるあの人の愛情です)』
真に、『天人のゐんせざる所は、禍(わざわい)ありて、しかも福なし(『劉輔殿』にあり』)と東方朔(とうぼうさく:前漢の文人諧謔〔かいぎゃく〕、風刺の際に優れ、武帝に寵愛され。)が言葉として知られています(『劉輔殿』にあり、東方朔言葉ではない)」と言って、然るべき仏道に導く高僧を尋ねて、生年十六歳で出家して、諸国を修行した後に、大磯の虎御前の住居を訪ね、共に仏道に励み、いずれも八十余にして大往生を遂げた。有難い心ざしと聞こえる。
そして、源太左衛門景季は、この事を聞いて、もとよりこの女の志は尋常にして、歌の道にも優れており、今は曽我五郎こそ敵である。行き逢う所に、本意を遂げようと思い、だからこそ、平塚の宿まで追ったのだ。その時、景季の勢いが勝れば、また並ぶ人が無かったが、富士の裾野では、まことにおこがましく(馬鹿のよにうに)見えてしまった。それゆえに、
「人は世にありとも、よくよく思慮あるべきものを(人は世の中を生きるにあたって、よくよく思慮深くあるべきだ)」と言って、皆人もそのように思う。五郎も、この事を伝え聞いて、優しくも又、心許なく思っただろう。これによって、いよいよ我が身を考えずに、世を世とも知らずに、仇討の事のみを急ぐ事は、もっともらしく聞こえるが、哀れであった。 ―続く―







