筥王、曽我へ下りし事
そうこうしている内に、年月が過ぎてゆき、筥王は十七歳になった。ある時、別当は筥王を呼び寄せて、
「貴方は、早十七になられた。上洛して、受戒(僧侶となるために戒律を守ることを誓う儀式)をされなければならず、垂髪(髪を垂らした髪型)で上れば、物々しく受戒も叶わないであろう。これはまた大事な事である。ここで髪を整えて上洛されるが良い」と言われると、筥王自身は考える所があると思いながら、
「良き様に御計らいを」と申した。別当は、
「それならば」と言って、寺住する僧を呼び、出家の用意をされ、母の方にも言い下された。すでに明日と決められる。
筥王がつくづくと思うには、私が法師になったとしても、その時々に付けて仇討の事を思うであろう。罪深い事で、ひたすらに思い切り、元服して本意を遂げるべきである。そして、その本意を遂げた時には、後悔したところで仕方がない。この事を兄の十郎殿と相談して、ともかく決めなければならないと考えて、人にも知らせずに唯一人、夜にまぎれて曽我の里に下った。
「山月東に前途を差して、しかも思いを労す。辺雲秋冷(すず)しくて、後悔を成し難くして魂(たましい)を消すといふ、(今の自分は未来・前途に向かおうとしているが、前途を期待しつつも、過去の栄光や現状への不満に心が疲弊している。しかし現実の冷たい秋の空の下、高き理想を追い求めるほどに、人間としての魂が失われていく)」と言う藤原篤茂(とくぼ)の詩が、今更に思い出して曽我の里に着いた。
十郎の乳母の家に立ち入って、十郎を呼び出して対面すると、十郎は、
「どうしてここに居るのだ。明日が出家と決まったと聞いたで、山に登ろうと思っていたところだ。下って来られた事は嬉しい」と言った。筥王はそれを聞いて、十郎に語った。
「会いたいと思うのも、延び延びになり、少しも叶わず。私の出家の事は、既に、かねてより決まりました。すでに夜が明ければ、出家する事が決まっております。泣き伏していては、物事が進むわけではございません。兄上のもとに参る物なのか。もし、報せを持って来なければ、空しく髪を剃る他ございませんでした。仇討については、一昨年、鎌倉殿(頼朝)が箱根御参詣の時、工藤祐経が御供として初めて見ました。少しも忘れる事はなく、たとえ法師になったとしても、この悪念が晴れる事はございません。一念無量劫(いちねんむりょうごう:一年の怨念は永く消える事は無い)、今に始まる事ではありません。一瞬でも妄想を抱くと、極めて長い間に渡って、その報いを受ける事は、今に始まった事ではなく、思い悩み、山を下って参りました。再び山に登るべきと申されようが、そのつもりはございません。相談して決めたいのです。もしまた仇討を捨てよと申されるなら、この機会に上洛して、我が山にて髪を落として膚(はだえ)の墨染の僧衣で隠し、足にまかせて、頭陀(修行のための托鉢)乞食(食を求めながら行脚する修行)をして、この一生を親の後生をねんごろに弔おうと思います。また、男になり(元服して)、仇討の事が叶わぬまでも、行おうと。急ぎ返事をいただきたいです。身の浮沈は今、決まるのです。よくも考えずに山を下り、帰参するのは見苦しく。山に私がいない事で騒ぎになるでしょう。夜もすっかり更けました」と責めたので、十郎はしばらくして、
「祐成の心を見ようとして、このように言うのか。お前に烏帽子を着せるのが私の本意である。何も考えるまでもない」と言う。筥王は続けて語った。
「そのように思われ決めている事をどうして今までお話しいただけなかったのか。私は、山を下って出家しておりました」と申すと、十郎は、それを聞いて、
「この事は別当も知らないわけではないだろう。夜が明けたら山に登ろうと思っていたが、嬉しい事にお前が下ったのだ」と言うと、筥王が申すには、
「母や師匠の御心に違える事は、どうする事も出来ず、いずれの方々の御事も、一事の事と思っています」と言うと、十郎がこれを聞いて、
「その科(とが:罪)の事は、祐成に任せよ。何とかお願いして、事が穏便に済むようにしてやろう。夜が明けると、「いざ」と馬に乗り、ただ二騎、曽我を出て、北条(現静岡県国市)へ向かった。
※兄弟が遺した歌ともに、記された年齢から逆算すると建久元年(1190)の事項である。
筥王元服の事
こうして兄弟は、昔から、常に出かけて行って遊ぶ所であった、北条時政の所に向かった。時政は、
「如何した、珍しい」と挨拶をすると、十郎は扇を笏に取りなおし、礼儀を糺して申すには、
「弟の童を母が箱根へ登らせて法師にさせようとしました。世には無用の言葉があるにもかかわらず、学問の名目や名号も聞かず、その上、鹿や鳥を食べてはいけないと申す事は、この堅固な、ならず者の弟では、「仏の教えに従わない弟子を、早く父母に返すべき」と言う言葉に着き、里へ追い下されました。時期を見て元服しようと思いましたところ、母においても、養父の曽我太郎殿も、しきりに止めさせようとする所、親しき三浦の人々、妻室である伊東の方様を頼ろうと、二人して参ったのでございます。たとえ道の辺で、髪を剃る事になろうとも、御前で元服したいと申したので。しかし御身が咎めを受けることもございましょう」と申すと、時政は、
「まことに、二人の事を、見放す事は無い。ならば他所で髪を剃る事になっていたなら無念であった。私が元服させることは本望である。この時政の子、烏帽子子として」と申して髪を切り、烏帽子を着せて、曽我五郎時致(ときむね)と名乗らせた。時政は、鹿毛の、五臓たくましい(健康でたくましい)馬に、白羅輪(しろふくりん:銀覆輪とも言い,鞍の縁飾りとして覆輪に銀または銀色の金属を用いた物)の鞍を置かせ、黒い殿原真紀を一領添えて、贈った。
時致は、
「常に超えて遊びに来ます。きっと、母の思いに背くことでしょうから」と挨拶を申して、帰っていった。
―続く―







