呉越の戦ひの事(四)
実に、忠言は耳に逆らう習いなれば、呉王夫差(ふさ)は大いに怒り、目の前において国が傾くと云えども、軽々しく私に背き、まして、よこしまな道に入る事は、一通りではなく、これ単(ひとえに)に怨敵(おんてき)の誘いを受けたと思われる。その様な事においては、悪事を犯さない先に、伍子胥を誅せられるべきと決められた。伍子胥は、あえてこれに対して辛い事とは思わず、そして、申すに、
「わが君王の朝恩を捨てる事ではない。国が乱れれば、一番に出で立ち、呉王の為に屍をさらす身である。越王の兵の手にかかるよりも、君王の手にかかり死ぬことは、恨む事ではない。ただし、君王が、臣下の諫めを聞かずに、怒りをほしいままに、我に死を与える事は、天は既に君を捨てる初めである。君は越王に滅ぼされ、死刑の罪に科されん事、三年を過ぎる事は無い。願わくは、我が両眼をくりぬいて、呉の東門に掛けて、その後に首を刎ね給え。両方の眼は枯れずして、生きたままで待ち申します。君は、越王句践に滅ぼされ事を見て、笑うだろう」と申すと、呉王はいよいよ怒りを持って、終に伍子胥を斬られた。無慙な有様であった。しかしながら、呉王は伍子胥を斬った事に後悔なされる理を思い合わせられる事になる(後悔先に立たず)。こうして伍子胥が願った、二つの眼を抜き取り、東門に掛け置かれた。そうした後に悪事は、いよいよ多く積み重なったが、伍子胥が誅殺された事を見た臣下は、あえて諫める者はいなかった。それは嘆かわしい有様であった。
越国の范蠡(はんれい)は、これを聞き、時すでに至ったと喜び、自ら二十万騎の兵を率いて呉国に向かった。調度その時、呉王夫差は、晋の国が叛いたと聞いて、兵を率いてこの国に向かっていた為に、国を守る兵は一人もいなかった。范蠡は、まず王宮へ乱れ入り、西施(せいし:越王句践の后)を取り返し、越の王宮へ返し入れられた。そして、枯蘇城(こそじょう)を焼き払う。斉・楚の両国も、越王に志を共にしたために、三十万騎の兵を出して、范蠡が勢に力を合わせる。呉王はこれを聞き、大いに驚き、晋の国の戦いを差し置いて、呉国に引き返し、越王と戦う。しかしながら、越・斉・楚の兵は雲霞の如く多く集まり、争って攻めれば、後ろより、晋の強敵が勝機に乗じて追いつけた。呉王は大敵に前後を包まれて逃れる術はなく、死を軽んじて戦うこと三日三晩であった。それは范蠡が、前線の兵を新しい兵に入れ替え、息をもつかさずに攻めた為に、呉王の兵が三万余騎を討たれてしまい、わずか百余人の兵となってしまった。呉王も自ら合戦する事、三十二回であった。夜半に及んで、百余人の兵は、わずか六十騎になり、枯蘇山に登って、越王の方に使いを立てた。
「君王の昔、会稽山に囲まれ苦しめ置いた時、越王句践の命を助けた事、忘れるべきにあらず。自からが臣下となり、今、この乱を起こす事、単(ひとへ)に助けた重恩にあらず。我も、今より後、越王のごとく、又君王の玉趾(ぎょくし:天子、貴族の御足。絶対の服従)を戴(いただ)こう。君、かつての会稽の恩を忘れていなければ、今日の死を助け給へ」と言葉を尽くした。しかし越王は、これを聞いて、昔の自身を思い出し、今の人の悲しみを思い知られた。呉王を殺害するのをためらい、その死を救おうと思いためらう。范蠡はこれを聞き、大いに怒り、越王の前に来て、主君の意に逆らうのも憚らずに諫め申した。
「古は、天より越を呉に与えられました。それにて、今また、呉を越に施されました。したがって、呉王は、天に与えられた好機を取らずに、この様な災いに遇った。越も又、この様な災いに遇う事に、疑う余地はございません。呉王の意を憐れむ事は、国の為に君臣共に深く心を悩ませ、懸命に努力し、呉王を討とうとした二十年の春秋、どうして思い知られずにいられましょうか。君が非を行う時、従わざるもの忠臣なり」と言い捨てて、呉王の使いが未だ帰らない内に、范蠡は自ら攻め鼓を打って、兵を進めて、終に呉王を生け捕りにして、軍門の前に引き出した。范蠡の長年の望み、憤りは、そこに思わせる物であった。呉王は既に両手を後ろ手に縛られて、顔を前に晒し、呉の東門を通る時に呉王の忠臣、伍子胥の諫めが叶わずに、首を刎ねられた時、両眼を小旗の上部に付けた鉾に掛けたが、呉王の最期を見るには三年枯れずして、見開いていると語った。呉王は両手を後ろ手に縛られ、この一双の眼の前を通り過ぎるのを見て、自ら動かして笑うように見えた。深く思いこむほど恐ろしい事いである。呉王は伍子胥に顔を合わせる事が恥ずかしく思い、袖を顔に押し当てて、首を傾けて通るのは、いたわしく見えた。数万の兵はこれを見て恨み、誹らない者はいなかった。
さて、この伍子胥の眼は、呉王の果てるのを見届けると、霜が日陰に溶けるように、時の間に消えてなくなってしまった事は、非常に珍しく不思議な事であった。則ち呉王夫差は、典国の官に下されて、会稽山の麓にて、終に首を刎ねられた。哀れな事の例と伝えられる事となる。そうして、古より今に至るまで、俗のことわざに、「会稽の恥をきよむ」とは、この事を言う。
さて越王は、呉国を取るのみならず、隣国までも従えて、覇者の盟主となったので、その功を賞して、范蠡を一万人の人民を領有する大諸侯に任じたが、范蠡はこれを受けずに、
「大きな名誉の下には長くいてはならず、功をなして名を遂げた者は、早く身を退くのは天の道です」と言って、終に名を変えて、陶朱公(とうしゅうこう)と言われ、大きな湖の五湖と言う辺に身を隠し、世を逃れて、釣りをして、白頭(白髪の老人)の翁となって、後に行方知れずになったと伝えられている。
ある人が言うには、
「越王は、会稽の恥をすすぎ、運命を開き、世に栄えた。今の五郎時到は、恥をすすぐと云えども、一命を失うならば、少し違うようである」と言える。またある者は、名を清め、誉を世に残す理である。この人の弓矢を取っての勢いや、内鍛えた刀剣の振る舞いは、呉越の戦いに勝るものかな」と感じる人が多かった。聞く人は、「理」と申した。
※この呉越の戦いは中國の古事『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』に由来する。
鶯と蛙の歌の事
さて、「花に鳴く鶯、水に住む蛙さへ、歌を詠むものを」と言うのは、人皇八代の帝の孝謙天皇の御代、大和国の葛城山の麓、高間寺と言う所に僧が居ましたが、ただ一人の弟子に先だたれ、深く嘆き悲しんでいました。次の年の春、この寺の軒端の梅の梢に鳴く鶯の声を聞けば、
「所陽毎朝来(しょようまいちょうらい)、不相還本栖(ふそうげんほんせい)」と鳴き、文字に写せば歌であった。
「初春の朝ごとには来たれども相はでぞ還る本の栖(すみか)に(初春の朝ごとにやってきましたが、会わずにと帰りましょう。本の住家に」と、鶯のまさしく詠んだ歌である。また「蛙が詠んだ」とは、昔、紀義貞が住吉にわすれ草と言う女房を訪ねて行ったが、この女には会わずに未練を残したまま帰ろうとした時に、蛙がその前を通り、その跡を見れば、三十一文字の歌があった。
「住吉の浜のみるめも忘れねばかりそめの人にまた訪(と)はれけり(住吉浜の海草ではありませんが、あの人はあなたの事を忘れていません。そのあたりの人に女の居場所を尋ねてみれば)」
これも又、蛙が詠んだ歌でした(毘沙門堂本古今集注による)。
※この件で巻五は終了し、王堂本も上巻を終える。ちょうど半分であり、下巻の巻六から『曽我物語』の核心に入っていく。 ―続く―







