カッコイイということ(Ⅰ) | 家族を見つめる(家庭教育)

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音楽・デザイン・調光など、人によって様々に捉えられるアートには、
いろんな理論が過去、構築され、社会の中で活用されています。
また近頃は、製造物の世界ですが、グッドデザイン賞など、
新規性・嗜好性・使い勝手などをトータルで求められることが多くなったようです。

ユニヴァーサルデザイン ・アーバンデザイン(都市全体またはその一部の設計)

などといった言葉が多くなったのは、
環境をはじめとする様々な危機感から”人や自然にやさしく”という傾向がある
のだとみています。
形態、空間、心理など、ただでさえ要素の多いデザインの世界ですが
デザイン論について語る書籍は意外と多いようです。


しかし、当然のように人の主観によって判断される理屈がほとんどです。
たとえ科学的な分析に裏づけされたものとしても、結局は
”カッコよさ一番、使い勝手二番”ということに落ち着く傾向があります。

かといってトータルでデザイン性に劣るかというと、そんなことはありません。
それなりにカッコよさのあるデザイナーの力量を感じさせます。

ここで必ず出てくることばがあります。

それは、
「人によって好みは違うよ」
まさにそこです。人によって違うわけです。


ホームページ(ウェブ)デザインの世界もまさにその通りです。
アクセシビリティユーザビリティ といったちょっと難しい言葉があります。
これは、平たく表現すると”使い勝手”ということでいいでしょう。しかし
現実は、使い勝手を考えた作りより”カッコイイかどうか”が目立ちます。

主観によって評価を左右される傾向が強いようですね。

本来は、中身(掲載される内容)で勝負するのがホームページなのですが、
どうしても見た目で評価のほとんどが決まってしまうようです。
「それではデザインを論じる意味がないではないか」
という声が聞こえてきそうですが、デザインは概して人々の目を惹き付ける

役割りがあります。役割りは興味を惹くという重要なキッカケ作りでもあります。

カッコイイということをじっくりと考えてみる価値はありそうです。

その他”誰もが使える”ための手法はたくさんあり、技術の裏づけを要せば

参考書ひとつと少々の努力で立派なものを作成することが十分可能であり

現実に社会の中で活用されています。


このように、使い勝手を考えた作りは、製造物をより多く利用してもらうこと、
いわゆる実用化に貢献しているのですね。
しかし、ここで理論付けが曖昧なまま、一人ぼっちになっている要素”カッコよさ”
については、前述の傾向によりハッキリとした根拠が見えてこない状態です。
それではカッコよさについてちょっと考えてみましょう。

カッコイイと感じるデザインでも、いろんなカッコイイがあります。

・いつみてもカッコイイ
・今流行のものだからカッコイイ
・ずっと見ているとそうでもない気がするが、改めてみるとやっぱりカッコイイ
・自分はカッコイイと思うが、他人が見たらそう思わないかもしれない
・特定の人たち(たとえばOL)が見たらカッコイイと思うはずだ
・特定の場所(デザインの所在する)ではカッコイイと思う
・自分とデザインがセットになったときカッコイイと思う
・強烈ではないがなんとなくカッコイイと感じる
・人がカッコイイと言うのだからきっとカッコイイのだ...etc

やはり主観が支配する世界ですね。正直言いまして理論付けできないなといった
ところです。(笑)
それぞれに共通するのは、自己があってはじめて対象(デザイン)を認識している
ということですね。

特定の場所ではカッコイイというのは、デザインという対象から環境も含め
一体化したところに美を感じるという、巧みにも想像あふれる感覚です。
 また、自分とデザインがセットになったときというのは、自己を認識する力も
さることながら、統一美を自己に投影するという高度な感覚に思えます。
今流行だからとか、人がカッコイイと言うのだからといった捉え方は、カッコイイ
という前に、美の捉え方を学んでいることを予感させます。

この中で、強烈ではないがなんとなくカッコイイという見方は不思議です。
インパクトが強ければ感動に繋がる傾向が強いはずですが、この捉え方はやがて
ジワジワとやってくるであろう感動を予知しているかのようです。
このジワジワ感は数値では表しにくい世界ですね。しかし、ここに何か大切な
答えが隠れているように思えてならないのです。
環境免疫