栗城さん
栗城史多クリキノブカズ 
登山家 です。

録画機でたまたま「ドキュメント」のお任せ録画で拾われた事から登山家栗城史多さんを知りました。
北海道で高校卒業後、憧れの東京に上京、 東京で1年間フリーター&ニートを経験した。
東京に憧れた理由は「目標達成」の為。
その目標とは彼女に突きつけられた「理想の彼氏3条件」それを目指そうと思っていた。
1 車を所有する。
2 大学を出ている。
3 公務員である
しかし現実は甘くない 夢や目標がなくなり引きこもりの状態になり、
絶望感を背負い当時の彼女と結婚しようと思い北海道へ帰った。
そこで彼女からの想定外の言葉が・・・
「あまり好きじゃなかった」 
あっさり、ふられてしまったのだ。
この彼女は冬山に登り、スキーで下山するという非常にアクティブな人で、登山というは何が楽しいんだろう?
と思い、未練から始まった登山だった。
大学の山岳部に入部して、登山を始めました。
始めは楽しくなかったそうで、それでもなんとなく2年くらい続けた。
無酸素単独登頂を目指した事から大学では山岳部の除名を受ける事に・・・
「事故が起きてからでは遅い」との理由で・・・
山登りに本当に獲りつかれるようになったのは、北米最高峰のマッキンリーに登ってからとコメントしている。

その後は2005年1月 南米最高峰「アコンカグア」に単独登頂を成功させ7大陸最高峰のうち6大陸を単独で登ってきた。
2007年5月ヒマラヤ初遠征で世界第6位高峰「チョ・オユー」単独無酸素登頂を成功。
2008年10月、世界第8位高峰「マナスル(8163m)」では日本人初となる単独無酸素登頂と、山頂からのスキー滑降に成功。
2009年5月世界第7位高峰「ダウラギリ(8167m)」単独無酸素登頂に成功し、この時からインターネットライブ中継で「冒険の共有」を実現。
そして同年の秋
日本人初となるエベレスト単独無酸素登頂を目指した、インターネットにて制覇の瞬間を動画で配信する企画も組まれていました。
しかし、7950メートル地点で体調不良にて断念、栗城史多さんは体調不良にも関わらず、中継地点の栗城組スタッフに「あと少し山頂が見えている・・・行きたい」と何度も無線で意思を伝えるが、
中継地点の栗城組スタッフは、「生きて帰ってきて欲しい」「生きて帰ってくればチャンスはまた来る」と必死の説得、その後断念して中継地点の栗城組スタッフの元へ日が落ちて真っ暗の中帰還した。
栗城史多さんは帰還と同時に号泣・・・
帰還出来た喜び、生きて帰った喜びではなく
悔しさからの号泣・・・

2010年今年の秋、昨年失敗に終わったエベレスト単独無酸素登頂を再度目指すそうです。

成功して欲しい!

栗城史多著書
『一歩を越える勇気』を読んで・・・