(32)第5篇第21章、利子生み資本 (その1) | kmhamのブログ

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『資本論』学習会レポート 資本論・第3巻・第5篇
 利子と企業者利得とへの利潤の分裂  
第21章、利子生み資本 (その1) 
(⑩p7~)(資本論学習会 2013.10.16開催分)
「前提」

・一般的利潤率又は、平均利潤率を最初に考察した時(第3部第2篇)には、まだこの平均利潤率はその完成した姿では現れていなかった。というのは、まだ平均は種々の部面に投下された産業資本の間の平均として現れていただけだからである。
・この点は、第4篇で補足され、そこではこの平均への商業資本の参加と商業利潤が論究された。そこでは一般的利潤率と平均利潤とが前よりも狭い限界の中で現れた。これからの展開では、我々が一般的利潤率又は平均利潤と言う場合には、この後の方の意味で、つまり平均率の完成した姿について言うのだという事を常に念頭に置いておかなければならない。
・この平均率は、これ以降産業資本にとっても商業資本にとっても同じなのだから、それらの間に区別を設ける必要はなくなる。資本が生産部面の中で産業に投下されるか流通部面で商業に投下されるかに関わらず、資本はその大きさに比例して同じ年間平均利潤を生み出すのである。(⑩p8)
「資本としての貨幣」
・貨幣(ある価値額の独立の表現と考えられるもので実際の貨幣か商品かには関わらない)は、資本主義的生産の基礎の上では、資本に転化される事ができ、この転化によって、ある一定の価値から、自己増殖する価値になる。それは利潤を生む。即ちそれは、資本家が労働者から一定量の不払い労働、剰余生産物、剰余価値を引き出して自分のものとする事ができるようにする。(⑩p8)
・こうして貨幣は、自分が貨幣として持っている使用価値の他に、1つの追加使用価値、即ち資本として機能するという使用価値を受け取る。ここでは、貨幣の使用価値は、それが資本に転化されて生み出す利潤にある。
(⑩p8)
・このような可能的資本としての、利潤を生産するための手段としての、属性において、貨幣は商品に、とはいえある独特な商品になるのである。又は同じ事であるが、資本が資本として商品になるのである。(⑩p8)
「利子①」
・年間平均利潤率を20%とすれば、100Pの価値の機械等を合目的的な活動によって資本として使用すれば、それは20Pの利潤を生むであろう。従って自由に使うことができる100Pの所有者は、100Pを120Pにする力、つまり20Pの利潤を生み出す力を握っている訳である。この人が100Pを、現実にそれを資本として充用する別のある人に貸すとすれば、前者は後者に20Pを生産する力を与える訳である。(⑩p9)
・後者が100Pの所有者にたとえば5Pを支払うとすれば、即ち生産された利潤の一部分を支払うとすれば、彼はこの100Pの使用価値に、その資本機能即ち20Pの利潤を生産するという機能の使用価値に、支払う訳である。利潤のうち、彼が前者に支払う部分は利子と呼ばれる。だから利子というのは、利潤のうち機能資本が自分のポケットに入れないで資本の所有者に支払う部分を表す特殊な名称、特殊な項目に他ならない。(⑩p9)
・100Pが20Pの利潤を生み出すのは、それが産業資本であれ商業資本であれ、資本として機能する事によってである。しかし、資本としてのこの機能に不可欠な条件は、それが資本として支出されること、つまり貨幣が生産手段の購入か又は商品の購入に投ぜられる事である。(⑩p10)
・だが、もし100Pの所有者Aがそれを自分の個人的消費の為に支出するとか、蓄蔵貨幣として手元に置くとかすれば、それは機能資本家Bによって資本として支出されることはできない。Bは自分の資本をではなくAの資本を支出・運用するのである。Bが資本家として機能するのは、ただ、AがBに100Pを任せ、従ってそれを資本として支出するからなのである。(⑩p11)
「利子生み資本の本質と特有な流通、物象化」
・出発点はAがBに前貸しする貨幣である。これはBの手で現実に資本に転化され、運動G-W-G’を済ませてからG’(G+ΔG)として、Aに帰ってくる。このΔGは利子を表す。そこで運動はつぎのようになる。
G-G-W-G’-G’(⑩p12)
・ここで重複して現れるものは、(1)資本としての貨幣の支出(G)、(2)実現された資本としてのG’またはG+ΔGとしての、貨幣の還流である。Gの第一の場所転換(G-G)は決して商品変態の契機ではなく、又資本の再生産の契機でもない。それは第二の支出(産業資本または商業資本)で初めてこのような契機になる。(⑩p12)
・ここでGの第一の場所転換が表しているのは、AからBへのGの移転又は引き渡し、即ちある法的な形式と留保との下で行われるのを常とする移転以外のなにものでもない。(⑩p13)
・このような資本としての貨幣の二重の支出には、二重の還流が対応する。それはG’又はG+ΔGとして運動から機能資本家Bに還流する。次にBはそれをAに、しかし同時に利潤の一部分をつけて、実現された資本として、G+ΔGとして移転するのであるが、このΔGは全利潤に等しいものではなく、ただ、利潤の一部分である利子でしかない。(⑩p13)
・この商品に、即ち商品としての資本に特有な”貸し”という形態、それは又他の取引でも”売り”という形態に代わって現れる形態であるが、それは、既に資本がここでは商品として現れるという規定から、又は、貨幣が資本として商品になるという規定から、出てくるのである。(⑩p14)
・ここでは、次のような区別をしなければならない。即ち資本は、流通過程では商品資本と貨幣資本として機能する。しかし、この2つの形態では、資本は資本としては商品にならない。(⑩p14)・現実の運動の中では、資本が資本として存在するのは、流通過程での事ではなく、ただ生産過程、即ち労働力の搾取過程だけでの事である。(⑩p17)現実の流通過程では、資本はいつでもただ商品か又は貨幣として現れるのであって、その運動は一連の売買即ち、商品の変態である。(⑩p19)
・ところが利子生み資本ではそうではない。自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所有者は、それを第三者に譲り渡し、流通に投じ、資本として商品にする。それは、それを譲り渡す人にとって資本であるだけではなく、初めから資本として、剰余価値、利潤を創り出すという使用価値を持つ価値として、第三者に渡されるのである。(⑩p17)

・貸付資本の場合、還流は返済という形態をとる。というのは、その前貸し、その譲渡が貸付という形態をとるからである。貸し出された資本は二重に還流する。即ち、再生産過程ではそれが機能資本家の手に帰り、次にもう一度、貸し手即ち、貸付資本家への移転として、資本の現実の所有者即ち、その法律上の出発点への返済として、復帰が繰り返される。(⑩p19)
・再生産過程の全体を見る場合には、そうはならない。貨幣から出発して見れば、ある貨幣額が支出されて、ある期間の後にそれがある増加分を付けて帰ってくる。前貸し貨幣額の補填分に剰余価値を加えたものが帰ってくる。それは、ある循環運動を通りながら自分を維持し、増殖したのである。(⑩p19)
・貨幣はそれが資本として貸し付けられる限りでは、このような、ある期間の後には追加分をつけて帰ってきて絶えず繰り返し同じ過程を通ることができるような、自分を維持し自分を増殖する貨幣額として、貸し出されるのである。それは貨幣として支出されるのでもなければ商品として支出されるのでもない。(⑩p19)
・それは資本として支出されるのである。自分自身に対する関係-資本主義的生産過程を全体及び統一として見れば資本はこういう関係として表される。又、この関係では資本は貨幣を生む貨幣として現れるのであり、このような関係が、ここでは媒介的中間運動なしに単に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体(物象化)されるのである。(⑩p20)

・個々の交換行為ではなく、資本の総循環G-W-G'を見れば、絶えずある一定の価値額が前貸しされて、この価値額・プラス・剰余価値又は利潤が流通から引き上げられる。この過程の媒介は、勿論単なる交換行為では目に見えない。そしてまさにこの、資本としてのGの過程こそは、貸付貨幣資本家の利子がそれに基づき、それから発源するものなのである。
以上、第5篇第21章、利子生み資本 (その1)了。