(67)第7篇 収入とその源泉 第48章 三位一体的定式(1) | kmhamのブログ

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『資本論』学習会レポート 『資本論』・第3巻・第7篇・諸収入とその源泉
第48章、三位一体的定式(1) (資本論学習会 2014.6.18開催分)
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この章の主題は「未来社会論」(前衛2014.7月号不破論文参照)
・ここでは、学習会資料に基づいてこの章をみて行くことにする。即ち
(1)「(⑪p337)既に見たように・・・~・・・これらの収入形態の実体が発生するのである。(p343)」
(2)「断片Ⅰ(⑪p329)資本-利潤・・・~・・・共通なものである。(p332)」
(3)「断片Ⅱ(p332)資本-利子。・・・~・・・愚かな事である。(p334)」
(4)「(⑪p343)本文の第2の部分・続き・・・差額地代は、・・・~・・・資本主義的生産様式においてはじめて・・・(p358)」
(5)「断片Ⅲ(⑪p334俗流経済学は・・・~・・・彼を解放するものだからである。p336)は独立したものとして読む」

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・既に見たように、資本主義的生産過程は社会的生産過程一般の歴史的に規定された一形態である。この社会的生産過程は、人間生活の物質的存在条件の生産過程であるとともに、又、独自な歴史的・経済的生産関係のなかで行われるところの、この生産関係そのものを、従って又この過程の担い手たちを、彼らの物質的存在条件と彼らの相互関係を、即ち彼らの特定の経済的社会形態を生産し再生産する過程でもある。何故ならば、この生産の担い手たちは自然に対しても彼ら相互の間でもこのような関係のなかにあり、その中で彼らは生産を行うのであって、このような関係の全体こそは、まさにその経済的構造から見た社会なのだからである。(唯物史観)  (⑪p336~p337)
・資本主義的生産過程は、それに先行する全ての生産過程がそうであるように、一定の物質的条件の下で行われるのであるが、これらの条件は、又同時に、諸個人が自分たちの生活再生産の過程で結ぶ一定の社会的関係の担い手でもある。それらの条件も、これらの関係も、一方では資本主義的生産過程の前提であり、他方ではこの過程の結果であり所産である。それらはこの生産過程によって生産され再生産される。(⑪p337)
・さらに資本は(資本家はただ人格化された資本でしかなく生産過程ではただ資本の担い手として機能するだけである)、それに対応する社会的生産過程で一定量の剰余労働を直接生産者又は労働者から汲み出すのであって、この剰余労働は、資本が等価なしに入手するものであり、又どんなにそれが自由な契約的な合意の結果として現れようとも、その本質はやはり強制労働なのである。(⑪p337)
・この剰余労働は剰余価値に表され、又この剰余価値は剰余生産物の中に存在する。剰余労働一般は、与えられた欲望の程度を越える労働としては、いつでも存在しなければならない。資本主義制度や奴隷制度などの下ではそれはただ敵対的な形態だけをもつのであって、社会の一部分の全くの無為徒食によって補足されるのである。(⑪p338)
・一定量の剰余労働は、災害に対する保険の為に必要であり、欲望の発達と人口増加とに対応する再生産過程の必然的な累進的拡張の為に必要なのであって、この拡張は資本主義的立場からは蓄積と呼ばれる。資本の文明的な面の1つは、資本がこの剰余労働を、生産力や社会的関係の発展の為にも、また一層高度な新形式の為の諸要素の創造の為にも、以前の奴隷制や農奴制などの諸形態の下でよりももっと有利な仕方と条件の下で強要するという事である。(⑪p338)
・こうして、資本は、一方では、社会の一部分が他の部分を犠牲にして行う社会的発展(その物質的利益も知的利益も含めて)の強制や独占がなくなるような段階を招き寄せる。また、他方では、それは、一層高度な社会形態の中でこの剰余労働を物質的労働一般に費やされる時間の一層大きな制限と結びつけることを可能にするような諸関係の為の物質的手段とそれへの萌芽とをつくりだす。何故ならば、剰余労働は、労働の生産力の発展次第では、総労働日が小さくても大きい事がありうるし、又総労働日が大きくても相対的に小さいことがありうるからである。
(⑪p338)
・一定の時間に、従って又一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行われる為の生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。(⑪p339)
・実際、自由の国は、窮乏や外的合目的性に迫られて労働するという事がなくなった時に、初めて
始まるのである。つまりそれは、当然の事として、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。
(⑪p339)
・未開人は、自分の欲望を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と闘わなければならないが、同様に文明人もそうしなければならないし、しかもどんな社会形態、どんな生産様式の下でもそうしなければならないのである。(⑪p339)
・彼の発展につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかし又同時に、この欲望を満たす生産力も拡大される。自由は、この領域の中ではただ次の事にあり得るだけである。即ち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配される事をやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制の下に置くということ、つまり、最小の力の支出によって、自分たちの人間性に最もふさわしい条件の下でこの物質代謝を行うという事である。
(⑪p339)
・しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたに、自己目的として認められる人間の力に発展が、真の自由の国が始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎として、その上にのみ開花することができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。
(⑪p339)(マルクスの未来社会論)

・資本主義社会では、この剰余価値又は剰余生産物は-分配の偶然の変動を無視して、その規制的法則、その基準的限界を見れば-、資本家たちの間で社会的資本のうちの各資本家の持ち分に比例して配当として分配される。この姿では、剰余価値は、資本の手に入る平均利潤として現れ、この平均利潤はそれ自身又企業者利得と利子とに分かれて、この2つの範疇の下にいろいろな種類の資本家のものになることができる。(⑪p340)
・とはいえ、このような、資本による剰余価値又は剰余生産物の取得や分配は、土地所有によって制限されている。機能資本家が労働者から剰余労働を汲み出し、従って又利潤という形態の下に剰余価値と剰余生産物を汲み出すように、土地所有者は又この剰余価値又は剰余生産物の一部分を再び資本家の手から、地代という形態の下に、汲み出すのである。(⑪p340)

・ここで我々が剰余価値のうちから資本のものになる分け前としての利潤を問題にするとき、我々が考えている平均利潤(企業者利得・プラス・利子に等しい)は、総利潤(その量では総剰余価値と同じである)からの地代の控除によって既に制限されているのであって、地代の控除が前提されているのである。(⑪p340)
・だから、資本利潤(企業者利得・プラス・利子)と地代とは、剰余価値の別々の成分に他ならないのであり、剰余価値が資本のものになるか土地所有のものになるかによって区別される範疇、といっても剰余価値の本質を少しも変えるものではないのである。この二つを合計すれば、社会的剰余価値の総額になるのである。(⑪p340~p341)
・資本は、
剰余価値と剰余生産物に表される剰余労働を直接に労働者から汲み出す。だからこの意味では、資本を剰余価値の生産者とみなしてもよい。しかし、土地所有は現実の生産過程とは何の関係もない。その役割は、生産された剰余価値の一部分を資本のポケットから自分のポケットに持ってくる事だけに限られている。
(⑪p341)
・とはいえ、土地所有者は資本主義的生産過程で1つの役割を演じているのであって、それは、ただ彼が資本に圧迫を加えるという事だけによるのではなく、又、大きな土地所有は労働者からの労働条件の収奪の前提であり条件であるから資本主義的生産のそれでもあるという事だけによるのでもなく、それは、特に、彼が最も重要な生産条件の1つが人格化されたものとして現れるという事によるのである。(⑪p341)
・最後に、労働者は、自分自身の労働力の所有者および売り手として、労賃という名の下に生産物の一部分を受け取るのであって、この部分では、彼の労働のうち我々が必要労働と呼ぶ部分が表されている。必要労働とは、この労働力の維持と再生産の為に必要な労働であって、この維持や再生産の条件がより貧弱であろうと豊富であろうと、より有利であろうと不利であろうと、それの必要な事に変わりはないのである。(⑪p341)
・これらの関係は、他の点ではどんなに違って現れようとも、全て一つの点を共通に持っている。即ち資本は年々資本家に利潤をもたらし、土地は土地所有者に地代を、労働力は-正常な諸関係の下では、そしてその労働力が役に立つ限り-労働者に労賃をもたらすという事である。年々生産される総価値のうちのこの3つの価値部分は、・・・それぞれの所有者によって、年々、その再生産の源泉が枯渇する事なしに、消費されることができる。(⑪p342)
・この3つの部分は、
一本の多年生の木の、又はむしろ3本の木の、年々消費してよい果実として現れる。それらは、資本家と土地所有者と労働者という3つの階級の年々の収入、即ち剰余労働の直接的汲出者であり労働一般の直接的充用者である機能資本家によって分配される収入をなしている。(⑪p342)
・こうして、資本家にとっては彼の資本が、土地所有者にとっては彼の土地が、労働者にとっては彼の労働力が、又はむしろ彼の労働そのものが(というのは、彼は労働力をただ実現される労働力としてのみ現実に売るのだからであり、又彼にとっては労働力の価格は、資本主義的生産様式の基礎の上では必然的に労働の価格として現れるからである)、利潤と地代と労賃という彼らの特有な収入の3つの違った源泉として現れるのである。(⑪p342)
・資本と土地所有と労働とは、かの生産当事者たちにとっては3つの違った独立の源泉として現れ、このようなものとしてのこれらの源泉から、年々生産される価値の3つの違った成分が発生するのであり、従ってこの3つの源泉からは、この価値のいろいろな形態が社会的生産過程の別々の要因のものになる収入として出てくるだけではなく、この価値そのものが、従って又これらの収入形態の実体が発生するのである。(⑪p343)

(物象化的顛倒社会における三位一体的定式の本質的構造暴露)
以上、第7篇 収入とその源泉 第48章 三位一体的定式(1) 了