沙也加さんからの手紙 | 「松田聖子」という奇跡

沙也加さんからの手紙

*この記事は「上を向いて歩こう」というタイトルで一度UPしましたが、改題しております。

記事の途中と最後に、沙也加さんのアメブロでの記事を追加して、加筆・修正させていただきました。

 

皆様もうご存知だと思いますが、聖子さんがついに動き出しました!!

 

ディナーショー、そしてコンサート・ツアーの開催するとのこと。

 

 

簡単ではない決断だったと思います。

そして未だ悲しみは癒えるはずもなく・・・。

 

前回の記事で、こんなことを書きました。

 

>今の聖子さんの状況を考えると「何を書いていいのかわからない」、というのもあります。

このブログを始めて以来、何を書いていいのかわからなくなったのは初めてです・・・。

 

でも、聖子さんは前を向きました。

私には想像もできないような悲しみを、乗り越えられたとは思えません。

おそらく、その悲しみを抱えたまま、歌うことを決心してくれたのです。

 

それを思ったら、「何を書いていいかわからない」なんて言ってる場合ではありません。

聖子ファンの一人として全力で聖子さんを応援する、これしかないでしょう!!

もちろん、今は別アカウントでの沙也加さん追悼記事が中心になりますが、私自身、これからは前を向いて、聖子さんに向き合っていきたいと思います。

 

 

だから最後に少しだけ、感傷的になってしまいますがお許しください。

 

以下に書き出させていただくのは、沙也加さんが雑誌に掲載した手記の一部と、聖子さんを追ったドキュメンタリー番組の中で沙也加さんが聖子さんについて語った部分です。

これはある意味、沙也加さんから聖子さんへの「お手紙」のようなものだと思います。

 

*「文藝春秋」2001年10月号掲載

 沙也加さんによる手記から抜粋

 

 

 

 

 

*2001年5月21日、カンヌ映画祭で「BEAN CAKE(おはぎ)」が、短編部門のパルムドールを受賞したことを受けて、撮影当時(2年前)のエピソードを振り返りながら、母親としての聖子さん、芸能界の先輩としての聖子さん、二人の親子関係について、当時15歳になる直前、グリコのCMでSAYAKAとしてデビューしたばかりの沙也加さんが綴った文章です。

 

(前略)

 

私は、物心がついたころから、漠然とではあったが、母と同じ仕事がしたいと思っていた。

 

「この世界でやっていくのは、決してたやすいことじゃないのよ。もちろん楽しいことも沢山あるけれど、華やかに見えてもつらいことの方が多いんだから」

 

母がそう言っていたことを思い出す。

 

でも、松田聖子の娘として生まれて、母がコンサートとかをやっているのを見たら、同じ仕事をやってみたいと思わないほうが、正直に言って難しい。

応援してくれる人がいっぱいいて素敵な所に見えるから、すごく自然に芸能界に憧れる気持ちがあった。女優さんをやれるとしたらこんなことにチャレンジしたい、歌手をやれるとしたらこういう歌にチャレンジしたい、色々なことに全部チャレンジしてみたいと思ったのだ。

 

*当時沙也加さんが通っていたロサンゼルスの日本人学校に通っていました。

ホームルームで配られた数枚のプリントの中に、USC(南カルフォルニア大学)の映画学部の卒業生が、短編映画を作るという通知があり、それは同時にその映画(「BEAN CAKE」)のオーディション告知でもあったそうです。

直感的に「やってみたい」と思った沙也加さんは、早速お母さんに相談します。

 

その日、家に帰ると、母はいつものようにキッチンで夕食の準備をしていた。私は母に駆け寄り、「ねーねーねーねーねーねー」と、握りしめていたプリントを差し出した。

 

「今日ね、こんなのが配られたんだけど、ちょっとやってみたいんだよねー」

 

母が、きょとんとした顔でプリントを読み始めた。どんな答えが返ってくるか、一瞬、緊張した。私はUSCという大学の名前も知らなかったが、映画学部の卒業生にジョージ・ルーカスとか、すごく有名な監督さんがいることを母は知っていた(←尊敬)。

 

「いいんじゃない、やってみたら。すごくいい経験にると思うよ」

 

母が笑いながら言った。

 

「ほんと!?じゃあ、これ受けてみてもいい!?」

 

「うん、いいよ。じゃあ、ママが聞いてあげるね」

 

と、オーディション詳細のFAXまでくれた。すごく嬉しかった。送られてきたそのFAXは、オーディション時に演じる場面の台本だった。

 

ところが、台本の台詞やト書きは、全部英語だった。当時の私は、アメリカ人と日常会話をするのもままならない状況だったが、でも、そんなことで諦めるのはどうしても納得がいかなかった。オーディションまで時間がなかったので、母の助けも借りて、一つ一つ、和訳していくことにした。そして、訳し終わった所を何度も何度も繰り返しながら覚えて、母と一緒に夜遅くまで練習した。

 

母は、書斎に椅子を持ってきて私の向かい側に座り、転校生の太郎君の役とかをやってくれた。でも、こんな表情でこう演じた方がいいんじゃないとか、先輩として演技指導は一言もなかった。それは、「オーディションを受けるのはあなたで、合格するのも不合格になるのもあなた。あなたの感性で台本を読んで、あなたが演技すればいいのよ」という考えがあるからだ。私が松田聖子の娘として生きているぶん、母が作り上げた“SAYAKA”にしたくなかったのではないかと思う。

 

私は、少し不安だったけれど、変に作らずに、普段のまま、自分らしくオーディション

臨もうと思った。7割らいは母の手助けのお陰である。

 

7月29日、オーディション会場は私が通っている日本人学校の図書室だった。学校に向かう車の中で、私はお気に入りのオレンジソーダを飲んでいたが、学校が近くなるにつれて、緊張のあまり、味が薄くなっていく気がした(笑)。一緒に車に乗ってきてくれた母は、「頑張ってね!ママも応援してるからね」と励ましてくれて、終わるまでパーキングで待っていた。

 

(中略)

 

合格したことを知ったのは、オーディションの翌日だった。最初に母のケータイに連絡が入ったようで、普通の話をしている時に、

 

「ところで、あのオーディションなんだけど、受かったよ」

 

と、母はサラッと言った。

 

電報か手紙で知らせてくると思っていた私は、合格したという証拠がないので、「えっ、うそー」「からかってるんじゃないの?」「ホントに?」と何度も聞いた。

 

本当に嬉しかった。飛び上がって喜ぶ私に、母も、

 

「良かったね!頑張ったね!」

 

と言ってくれた。

 

(中略)

 

映画の撮影が始まって数日たったある日、家に帰ると、リビングが真っ暗だった。

 

「あれー、まだ夕方なのに……」

 

そう思って足を踏み入れると、

 

「パンパンパーン!!」

 

何やら音がして、急にパッと明るくなり、目がくらんだ。周りを見ると、クラッカーを持った母達が、微笑んでいた。

 

テーブルを見ると、“映画初出演おめでとう”と、いつの間に用意したのか、色とりどりの花や、カードがいっぱいあった。

 

「わぁ!! ありがとう……」

 

ちょっと気持ち的にしんみりしていた時期であったので、すごく嬉しかった。みんな、心からお祝いしてくれた。母の友達が飼っているシーズー犬までしっぽを振ってくれていた(笑)。

 

母は、誰かの誕生日とかになると、カードやケーキやプレゼントなどを徹底的に用意してお祝いをする。電気を消してクラッカーをパーンと鳴らし、その人が喜ぶ顔を見て、自分も同じぐらい喜ぶ。仕事が忙しいことはあるけれども、仕事以外の暮らしでは、普通の母親とまったく変わらない。

 

それどころか、実は昔から、“母”という感じがあまりしない。むしろ“友達”という感じなのだ。でもそれは母親らしくないという意味ではなく、何でも話せて、わかり合えるという意味だ。昔から仲の良い一番の“親友”のように感じる。14歳ぐらいになると、母親のことを「ウザい」と言う人も出てくるけれど、私は全然そう思わない。私ももし母親になったら、子供とこういう関係を築いていきたいと思っている。

 

自分も疲れているのに、そんな時でも自分以上に私の仕事や学校のことを一緒に色々考えてくれる。これは私だけにいえることではなく、周りのみんなをとても大切にする人だと思う。こんな風に、私の母は、仕事の面でも人柄の面でも、超素敵で超カッコいいスーパーな“ママ”なのだ。だから、松田聖子の娘として見られることが、重くのしかかってくるという感じもないのだ。

 

(中略)

 

私は今、かつて母がやっていたグリコのCMをやらせていただいている。CMデビューが決まって、嬉しくて嬉しくて、もらった絵コンテを毎日眺めていた(笑)。サイパン行きの飛行機に、母と一緒ではなく、初めて自分の“仕事”のために乗った。ホテルにチェックインする時、思い切って名前の欄に“SAYAKA”と書いてみた。まだぎこちないその文字が、CMデビューとともに名前になっていくんだなぁと実感した。それから、何とCM曲もいただいた。自分の書いた詞が、可愛い曲にぴったり乗っていたあの時の感動は、それまでにないものだった。

 

その夜、ホテルに戻って、日記を書いた。

 

〈サイパンに来れて嬉しい。グリコのCMをやれて本当に良かった。明日から撮影だけど、いつでも自分らしく、そのままの沙也で飛んでみようと思う――〉

 

でも、実は今もまだ、“SAYAKA”が自分であるという気がしない。普段の“沙也加”と何も変わらないはずなのに、“SAYAKA”となっただけで、今までとは違った別の存在に思えてしまう。

 

母をただ外から眺めているだけでも、芸能界で仕事をしていくことの大変さが伝わってくる。外側から見える華やかさ、そして内側に秘めている地道に続けて来た数々の努力、沢山のつらいこと。何か少しでも動けば、それが全国の人に知れ渡ってしまうプライバシーのなさ。それだけで芸能界の厳しさは充分にわかっていたつもりだった。

 

まだほんのわずかな期間だけど、自分がその身になってみて、まだ全然理解しきれていなかったことに気がついた。母がどれだけ頑張ってきたが、やっとわかり始めた気がする。おそらく母は、芸能界に入って、普通に暮らしていればしなくても良い苦労や痛みを私に経験させたくなかったんだと思う。デビューした今、母に守られていると実感する。

 

私自身、自分のどこに魅力があるのか、どんな才能があるのか、どこが足りないのか、本当に申し訳ないぐらいにわからない。とにかく、目の前にある楽しいことにチャレンジしていって、最終的に「これをやりたい」「ここをこうしたい」と心から思える目標を見つけること自体が、今の私の目標なのだ。これから新しいSAYAKAがいっぱい生まれてくると思うけれど、ゆっくりと育てていきたい。

 

*2007年放送「松田聖子~女性の時代の物語」(NHK)より

当時沙也加さん20歳。

 

(日々音楽活動に没頭してきた聖子さんについて)

「どうしてなんだろう?」ってずっと、思ってましたね。

だけどそれが、だから自分は不幸だとか、だから凄く満たされないとか、そんな風に考えたことは、本当に一回もないですね。

ただ、「どうしてなのかな?」って疑問に思ってました。

 

私は、よく見える位置にいますから、いつも。

逆に言うとその背中を見てる立場っていうことで、どういう風に世間の方に母が思われていたりとかしてるのか、今どういう風にじゃあ書かれているのか、私にとっては、あまりそんな大きな問題ではない、何よりもその、今このリアルタイムで生きてる人間としての母っていうのを見てますし知ってますから、何も足りてなかったわけじゃないし、一緒に過ごした時間が短くても、何か欠落してるわけじゃないし、私たちにはその世界っていうのが当たり前にあって、それを幸せと思って判断して、そこに価値を置いて暮してきたことがあるので・・・。

 

*2008年3月10日 沙也加さんのブログより

 

続々プチメも頂いてますが、今日はうちの母親のお誕生日なのです。

サヤも電話しました。

いつまでも若いなぁ。(笑)
色々な意味で、お母さんの娘だから、サヤは今ここに居られています。

素敵な人たちと出会える事、歌える事、泣ける事、志す事、つまり生きる事。

すべてあなたがくれたもの。

本当にありがとう。

そして皆さーん、プチメとっても嬉しいのですが、文章ごと読ませてあげたいので、良かったら母親へのメッセージは、サヤにじゃなくてseikomatsuda.jpの方に送ってあげて!

ちゃんと届くし、きっとすごく喜ぶと思うから♪

ありがとうございます!

さやっ。

 

以上、当時14歳、20歳、そして21歳の沙也加さんから聖子さんへののメッセージ、胸に沁みます・・・😭😭😭

何度も言っていますが、例えこの後難しい関係になった時期があったとしても、根底にはこの思いがあったのは間違いないと思います。

 

さて、先日、2004年に放送された、「たったひとつのたからもの」というドラマのDVDを購入しました。

放送当時もTVで観ていいドラマだと思った記憶はあったのですが、内容については結構忘れてしまっており、改めてじっくり観たくなったのです。

でも何故今になって観たくなったのかというと・・・。

 

このドラマは、ダウン症と診断され余命1年を宣告された子供と家族の物語で、最後にはお子さんが天に召されてしまうお話です。

最愛の子供に先立たれてしまう悲しみ・・・。

これ以上ない辛い状況の中でどこかに救いはないのか、それをこの作品の中に求めていたのかもしれません。

 

 

このドラマは実話を元にしたお話なので、ドキュメンタリーのような感動もあり、素晴らしいドラマでした。

 

>ドラマ中には、秋雪役の子役をはじめ実際のダウン症児が多く出演している。また、それまで歩けなかった子役の後藤響が撮影中に歩けるようになり、この場面はそのままドラマに使用されている。

(Wikipediaより)

 

*おそらく、この場面のことだと思います。

 

メイキング映像を観ると、こんな奇跡のような出来事が他にもたくさん起きて、それをスタッフや演者の皆さんがその場で上手く対応して撮影されていたことがよくわかります。

聖子さんと船越英一郎さんの夫婦もとても良かったですし、子役の杉森翼君との交流も心温まるものでした。

 

そして秋雪君は、お父さんお母さんの愛情もあり頑張って頑張って6年の間生き続けることができました。

その中で、谷啓さん演じる保育園の園長先生の言葉が印象に残りました。

 

人の幸せは、時間の長さでも命の長さでもない、っていうことじゃないですか?

ひょっとするとね、喜びの量と悲しみの量、これが人間皆平等に、同じなのかもしれません。

短い人生でも、同じ量が詰まっているのかもしれませんねえ・・・。

 

今この状況でこの言葉を聞くと、胸に響きました・・・。

 

そしてこのドラマのタイトル、「たったひとつのたからもの」という言葉は、どうしてもこの曲を連想してしまいます。

このドラマを観たくなったもう一つの理由は、そこにあったと思うのです。

 

そう、聖子さん自身が書いた『私だけの天使~Angel』です。

この曲、聴くのが辛すぎて、このブログでも何となく触れられずにいました。

 

ママの大切な 世界にひとつの 輝く宝物

 

何より素敵よ あなたがこの世に 生まれてきたことが

 

ドラマを観終わった時、聖子さんが演じたお母さんの秋雪君に対する気持ちは、まさにこの曲の歌詞の通りだったと思いました。

親が子供を育て上げるのはもちろん大変なことですが、それ以上に、子供からたくさんの幸せをもらっているんですよね。

きっと聖子さんも、沙也加さんから抱えきれない程の幸せをもらったと思うのです。

 

 

 

『私だけの天使〜Angel〜』

作詞:Seiko Matsuda

作曲:Seiko Matsuda、小倉良

編曲:鳥山雄司

 

仕事が終わって 

家に帰ったら

パジャマでかけて来て

 

こぼれんばかりの笑顔で優しく 

むかえてくれる

 

ごめんね いつでも

待たせてばかりで

淋しい思いを きっとしているでしょうね

 

どんな時でも 涙を見せないで 

微笑んでいる

天使のように可愛い顔をした あなたが

ママの大切な世界にひとつの 

輝く宝物

 

疲れているでしょう? 

いつも気にしては

肩をなでてくれる 

 

小さなその手で一生懸命

愛をくれる 

 

あなたがいるから 

ママはこうやって

毎日仕事を がんばってやってゆけるの

 

約束するわ ママの命賭けて

あなたのことを 守ってゆくわ 

それがママにとって 生きがい

何より素敵よ あなたがこの世に

生まれてきたことが

 

どんな時でも 涙を見せないで 

微笑んでいる

天使のように 可愛い顔をしたあなたが

 

約束するわ ママの命賭けて

あなたのことを 守ってゆくわ 

それがママにとって 生きがい

何より素敵よ あなたがこの世に

生まれてきたことが

 

・・・・・・・・・。

すみません、今歌詞を書きながら、こらえきれない感情が溢れ出しました。

でもここからは、前を向いていきます。

 

今、聖子さんのこの思いは、私たちファンの聖子さんに対する思いにもつながってくるでしょう。

いや、勝手に決めつけてごめんなさい、私はそうなんです。

 

何より素敵よ あなたがこの世に

生まれてきたことが

 

要するに、こういうことなんだと思うのです。

 

本日、松田聖子さんが60歳の誕生日を迎えました。

本来は祝福すべきこの記念日に聖子さんに何て声を掛ければいいのか、ずっと迷っていました。

でもやっと、自分の中でしっくりくる言葉が見つかりました。

っていうか、結局いつも同じことを言っている気がします😅

この言葉につきますね。

 

聖子さん

誕生日

ありがとう

 

生まれてきてくれてありがとう

歌い続けてくれてありがとう

 

そして聖子さんが今回の決断をしたのは、もちろん聖子さん自身が悩み迷い考え抜いた結果だと思いますが、きっとそこにはファンの皆さんの後押しがあったと思います。

 

*沙也加さん所属事務所への追悼メッセージ、きっと聖子さんは目を通してくれていることでしょう。

(私は未だに書けてませんが・・・😅)

 

そしてついに、聖子さんは前を向いて、いや、上を向いて歩き出したのです。
そう、沙也加さんと共に・・・。

 

 

上を向いて歩う
涙がこぼれないように
思い出す 春の日
一人ぽっちの夜

上を向いて歩こう
にじんだ星をかぞえて
思い出す 夏の日
一人ぽっちの夜


幸せは 雲の上に
幸せは 空の上に


上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら 歩<
一人ぽっちの夜

思い出す 秋の日
一人ぽっちの夜


悲しみは星のかげに
悲しみは月のかげに


上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら 歩く
一人ぽっちの夜


一人ぽっちの夜

 

このデュエット、紅白で歌った当時は「何故この曲?」という意見が聖子ファンの間でも多かったと記憶しておりますが、今こうして聴くと涙が溢れて止まりません・・・😭😭😭

また、二人のデュエットがしっかりとレコーディングされた音源という意味で、本当に貴重なものとなりました。

 

それにしても改めて、なんて素敵な親子なのでしょう・・・。

唯一無二の天才歌姫二人が実の親子だったという奇跡を、改めて実感します。

 

そしてさっきの「ありがとう」、大切な一言が抜けておりました。

 

聖子さん

沙也加ちゃんを生み育ててくれて、ありがとう

 

色々な考え方があると思いますが、私自身は、聖子さんが『上を向いて歩こう』と決心されたのなら、もう迷うことはありません。

「無理しないでね」と心配しつつも全力で声援を送る、これしかありません!!

聖子さん、あなたは「一人ぼっち」ではないですよ、って。

 

私の声聞こえたなら手を振って

私はうたってる

遠く 遠く 離れていても

こんなに近くあなたを感じるの

 

だから愛を 私の愛うたうのよ

ふたり今始まる

長い 長い 雨の日は

虹をさがすの あなたの瞳に

 

 

 

 

LOVE 一緒にうたいましょう

LOVE 大きな声を出して

LOVE 心に浮かぶ言葉

LOVE 隠した愛の言葉

 

LOVE ひとつの窓開いて

LOVE 同じ空みつめて

LOVE 歌い続けるわ

LOVE それが私の愛

 

せいこ~!

せいこ~!!

せいこ~!!!

 

最後にもう一つ、23歳の沙也加さんから聖子さんへの贈り物。

心のこもった誕生日のメッセージです。

これはたまらないです・・・。

 

*2010年3月10日 沙也加さんのブログより

 

あなたが産まれてくれたから、
サヤがいて、

あなたの全ては、
サヤの全てで、

あなたの幸せは、
サヤの幸せで、

あなたの悲しみも、
サヤの悲しみ。

だからあなたが生きてる事は、
サヤが生きてる事。

 

難しいようで、
簡単な事。


真っ直ぐで、
変わらない事。

感謝だけを束ねて、
あなたに捧げます。

love you,mom,

you're my all.

in every every meaning.

さやっ。