心が動くというか、さりげなさく巧いな、と思った場面がある。…ヒロイン・スズ子の母・ツヤが実子ではない赤ん坊を連れて帰ると、夫は驚きながらも、「まぁ、ええか…」といった調子で乗り越えるところだ。このなんとも言えない重さを無理ながらも軽く一寸流した調子がいい。例えれば、果樹園で手慣れた手つきのもぎ取りに等しい。戸惑いを通り越すはずの驚きを封じる呼吸である。同じく、呼吸といえば、スズ子が少女歌劇団の試験を1日間違えて受けに行くと、その歌を聴いた歌劇団の部長?と思しき人物が、「…入れたれや…」という間合いである。これらのドラマの転機となる節目をあっさりと平常心で乗り切るところにこのドラマの理性やら知性やら知略を感じたのである。

 

まぁ、『ブギウギ』は「理」に落ちたドラマである。一週間みてそう思った。ヒロインの人生を走馬灯ではなく、歩くべきところは歩いて人生の時間の幅と深さをきちんと計測していると思う。

 

・・・義理と人情。得を遠心的に希求するなら、損も得になる。理に落ちる。まぁ、損得抜きにして、そのひとの頭ん中にあることよりも、そのときあのとき袖の触れあいやら、肩がぶつかったことで、なんか突破口になったことを貴重に思うのが、本来の義理なのかもしれない。ふと思う。ヒロインは「義理」の「理」に乗って則ってひととひとの遭遇から初めて知ることから新たな価値やら捻りだすことに良さがあり、そこが丹念に描かれている。その意味では、中心と周辺の繋がりにもなにやら知性と品格を感じさせる滑り出しの朝ドラである。脚本家・足立紳は、監督も務めた映画『雑魚どもよ大志を抱け』でも、しょうもないガキ達の個性や家庭環境の説明で冒頭のかなりの時間を割いていた。町内というにはかなり広範囲な山やら川やら学校やら商店やらを見取図のように「理」に落としこんでいた。

 

・・・顔パスで銭湯に入れるアホのおっちゃん。そのわけありの風貌と佇まいの寡黙なかま焚きも同様に知略?すら感じさせる。なにやら生きた「歴史」の幅と深さがある。まぁ、ヒロインの実家・銭湯の最初のお客だったわけで、家業の起業の幸先を明るくした功績?がある。これは理に落ちた歴史である。ファミリーヒストリーに刻んだわけだ。

 

…さて、ここで考える。アホとは何か?むき出しとは違う。むき出しのふりして、いやふりしなくても頭ん中に何かを隠し持つものだ。アホやらなんやら、まぁ、わたしの脳の中身がこうなっているのは、或いはこうなってしまったのはわたし自身のことだったり、世の中とわたしの接合の仕方だったり、その比率は配合?のような問題だったり、なかったり、だ。そのひとならではのことと影響を良くも悪くも双方向から与えたことの混ざり具合がそのひと「たち」である。やがて、その「たち」それぞれの脳に隠し持つ謎の過去もわかることだろう。その時間の運びも理に落ちるに違いない。そのかき回し方、混ぜかたには紛れもなく無意識と意識の黄金比率を合わせての感覚が働いているのではないだろうか?アホとはその黄金比率の「知略」なすが故の捻りであり、或いはスズ子の爆発的エネルギーではないだろうか?差別表現ではない。その坩堝の人「たち」。「たち」、とは人と人が織り成す関係性のことである。そう。「たち」こそが中心に居るスズ子を御輿のように担ぎ上げることになるだろう。しかも、この御輿、歌って踊れる。…最強である。