このドラマは、様々なダメな男がいますよね、という図鑑のような内容なのだろうか?
…どうだめか?とか、なんでだめになったのか?は描写してはいる。しかし、もし彼等が本当にダメだとしたら、それを背負って空を飛ぶような"super woman"であることに、彼女は何故こだわるのだろうか?…「仕方なさ」?に究極に拘るのだろうか?幾つも顔、つまり夫の妻・父の娘・息子の母、そして会社の役職者。…肝っ玉で空を飛ぼうとしたら、ダメだった?…内憂外患という言葉があるが、”super woman”の背中には幾つもの石ころが乗っかっていると思う。…「そんなにしてまで何故飛ぶのか]?と思ってしまった。
同ドラマの脚本家・金子茂樹は、『コントが始まる』で主人公達が様々な「変化」への選択を「決意」したように。このドラマでも父親が受けた詐欺被害・息子の進学等の社会の空気はどんどん家の中に入って来る。
父と息子は「変化」への戸惑いから娘として母親として甘える。夫は?ふたりは「変化」を避ける、厭う、嫌がる。日常の「変化」から逃避に逃避を重ねる。でも、ふたりは「変化」への「決意」を誰もが余儀なくされる時が来ることは判っている。唯一ぐうたら生活に浸ったままの休業漫画家の夫は、「変化」への「決意」を余儀なくされることを先延ばししたままだ。
観ていて思ったのは、この“super woman”は家父長ならぬ家母長なんだと思った。
この家の「母」なのだ。彼女は三人の子供を養って面倒をみているのだ。
それはそれで居心地が良い事なのかもしれない。
しかし、「やってられないわ」は必ずあるはずだと思う。
そこが観たいのだが。その日が来たとき彼女なりの「決意」があるはずだ。
彼女は”super woman”ではないはず。
“super woman”という曲が以前あった。確か酸っぱいジュースを美味しいと当初は飲んでた男が、時が経って「酸っぱいよ」と咎めると、「私は”superwoman”じゃないから何でも出来るわけじゃないのよ」、と呟くような内容だった。
このドラマも”super woman”をやろうとしたけど出来るわけもなかった、という展開が良いと思う。『コントが始まる』も、お笑い芸人やろうとしてダメだったことを認めることで、初めて「決意」の道が開いたのではないだろうか?
家族の集合と解散との間?結婚を何かの活動の集合?離婚を解散?と表現する位に軽い昨今である。
でも、そうそう軽くないはず。
