海風に託したピュアネス。空転が纏わりつく泣き笑いの季節。彼女のような彼氏?彼氏のような彼女。まぁ、どちらでもいい。なんでもいい。あなたはあなた。フィクショナルにして生々しく絵の具の色を際立てる稀有な実体?毎日が絵日記。その身体全体をカンバスにぶつけること?目一杯絵の具を塗りたくること。これはもうサーカスの域だ。なるほど、この半生記は納得出来る。なんだか爽やかな風を感じた。・・・わたしがわたしを貫くこと。それって史上最強なのでは?大抵は自身の心の声に邪魔されて止めたりするものだ。・・・わたしがわたしのためにすること。・・・途方もないことしがみつく、あなたの全身の表情。・・・オオダコと闘ったポパイのそれを思い出す。でも、敵対ではない。そこは違う。身も心も海の生き物と同化したい位に魅せられた、だけ?・・・水族館の水槽に動く魚の群れ。あなたはそこに引き寄せられた。”into”.水槽の中へと。そうそこで。仲間になりたかった。無我夢中のあなた。窮鼠猫を噛むではなく魚に変身の企み。そう。あの人だかり。言葉を失う驚き。あの日あの朝あの店のシャッター。あのでっかく書いた魚の絵・・・あなたが酔いつぶれたあの路地裏のことだ。何かが舞い降りて、あなたに微笑んでいた・・・あなたの名前はミー坊。・・・「へん」って何?「へん」と呼ぶのが憚られる逞しさが、ミー坊にはある。そもそも「へん」ってどういう意味だろう。偏・変?「へん」の響きはそれ事態が個性では?・・・?マークを飛び越して!やら♡マークに跳躍では?タコやらイカを「イカした」友達のように「さん」づけで自身に被せることは出来るか?そう。「偏愛」とは「変」なのかなぁ、と自信や希望を忘れることではなく、むしろそれはわたしのアングルだと誇ること。ミー坊の周囲は皆そのアングルに微笑んでいた。・・・微かな光にすら見捨てれたかのような、ぐちゃぐちゃの長い夜にその辺の街の隅に踞るあなた。そういう日もある。諦めるには早すぎる。「偏愛」の横棒ひとつで何がわかる?とにかく自身の重量感を味方につけることにおいて青春最強説は不変ではないだろうか。「偏」も「変」もわたしのアングル。変わることはない。悲しくてたまらないわけではなく、苛立ちに苛まれるわけでもなく、ただやはり何か違和感が沸々とすること。猪突猛進の運動性を色彩のサーカスの渦が巻き込むこと。水族館はサーカスだったんだな。子供たちはその渦に色彩の乱舞をみていたのか?人生はサーカス。フェデリコ・フェリーニの基本。その海風は肯定のつむじ風か?さぁどうだろう。誰にでも波風は公平なはずなのに本当はそれとは違うのでは?悲観はいつも水を差す。でもふと思う。水を集めること。水を集めて坩堝を作るのが好きな私たち。そう。やっぱり水族館だ。嘘のような色彩が「偏」・「変」を駆使してホントウにここにあるよ、を見せてくれる。・・・私たちは何かを視て映画以外のことで映画を感じることがある。・・・そして、そのことを映画が教えてくれることもある。沖田修一は”Life is wonderful”の手腕を振るっている。
