『こちらあみ子』は芥川賞作家の今村夏子の小説を映画化した作品である。
少女の眼を通した、世界との対峙を描いたことに素晴らしさがある。
叙情的に風景の素晴らしさに彼女の心情を被せるのが映画のありがちなパターンである。
私は、それを否定するつもりは全くなく、その作風で佳作の映画も沢山あるのもよく分かる。
しかし、『こちらあみ子』は、独特のささくれ立ちを持ち、そこにこそ、彼女が個として、何を感じ、何を想い、だから何をするということに勇ましさを屹立させているのだ。
あみ子を演じる大沢一菜の一挙手一投足が印象に残るどころか、この映画のすべてである。
両親を演じる、井浦新と尾野真千子の演技を見ると、家族って何?と考えさせる。
・・・・・・母の口元のホクロが膨らんだ突起物。じっと凝視する。潰してみたい?・・・眼の前にある違和感。なんだろう?触れたいのなら分かる。でも、堪らなく押し潰したくなる?全身で指先の好奇心を尖らせる・・・あみ子はそういう子だ。この世界との敵対関係?違う。出来れば、うまくやりたい。なのにいつも裏目に出ること。例えば、お父さんとお母さんが生まれて来るはずだった子供のこと。彼女なりの弔いだった、のに。・・・・・・彼女は何かといつも繋がっていたかったんだ、と思う。でも、好奇心と違和感は、ずれながら擦れあっていつも等価交換には程遠い。へこたれても、へこたれない。それが、あみ子では?いつも感情が膨らんでた、彼女。浮き沈みの顔はない。沈む逆境。お化けは友達に出来た。幽霊は出来なかったけど。だって、幽霊は人間だから。ほぼ、同じだから。家族はほぼ陰を常食と定宿にする幽霊だ。笑い泣きとかではなく、そこにある、そこに見える世界。汚すつもりはないのだけど、このぐちゃぐちゃをあみ子は怖れない。吹き出物を潰して皮膚をこじらせるような、不安や恐怖?それを怖れないこと。そこにへこたれない。兄の頭には10円より大きなハゲがある。それって世界の裂け目?違うな。あったとしても虫眼鏡でもみえやしないのに。分かる筈もない。・・・・・・あみ子の好きなこと。チョコレートクッキーのチョコだけ舐めまわすこと。唾液まみれのその菓子。気になって仕方ないあの男の子。食べて貰いたい。唾液の共有?これは恋だ。しかし、この映画、風光明媚を遠ざけたように、いたいけな初恋すらぐちゃくちゃしてその情感を舌先で逆に尖らせる。いつしか鼻の骨も折れ、血まみれのチョコとチョコまみれの血。ぐちゃぐちゃなんだか分からなくなること。それを怖れないこと。受け止める彼女の面構え・・・・・・私にはふたつの色の区別がつかなくなった。この感覚はかつて見たことがあったのだ。・・・・・・そう。私にも他者の鼻血をみてチョコ色にみえたことがあった。何も出来なかった小学生。あの、無力な思い出。あの日のこと、いま・ここに引き寄せられる。これにはやられた。・・・・・・家族の思い出はいらない。写真機を捨てよう。この世界の輪郭。なぞりすぎて、表層の皮は脆すぎる。彼女は外の世界と唾液で繋がっていたかったのではないだろうか?ぐちゃぐちゃに潰しつつ舐めても何度やっても、ほんの微々たる少ししかわからないこの世界のこと。でも、それを続ける彼女。母と兄と父との別れ。捨てたのか?捨てられたのか?どちらでもいい。春には早すぎる朝の海?・・・・・・裸足でちゃぷちゃぷ。ぐちゃぐちゃにチョコレートクッキーを舐めまわし続けたあの日を遠ざけながら近づけてまた遠ざけること?彼女の性癖は少し実ったのでは?
ついに世界の裂け目ならぬ入り口がうっすらみえたような気がした。私には。
・・・寒くない。これから何処に行くのか?
・・・・・・ぐちゃぐちゃからちゃぷちゃぷへ。そう。全部君次第だ。
