『ファースト・ペンギン』(第2回)を観て思ったのは、主人公・和佳(奈緒)の奮闘が何を意味するか?ということである。

 

彼女が目指す漁業の未来への模索は、言うまでもなく、その未来を実現することで、新しい「価値」を生み出すことに違いない。新たな「価値」への格闘とは、男達の「再稼働」ではないかということである。・・・・・・この「再稼働」については、異論はないのではだろうか?・・・・・・いや、男達へのこの荒療治は彼らがしがみつくこれまでの「価値」の所在の置き方に関わることであり、簡単なことではない。

 

私が思ったのは、脚本家・森下佳子は、リアルな実話にフィクショナルな施しを如何に載せて行くかということである。まぁ、それは世にある脚本はすべて如何に「虚構」を載せるかということに苦心していることではあるのであるが、森下佳子は殊更そこにこだわりがあるのではないだろうか?というのは、これまでの彼女の作品は「・・・神は乗り越えられない試練は与えない」を巡る「天を仰ぐ」視線を言葉では持ちながら、実際に見上げることよりも、むしろ心の中にひっそりとその視線を常に忍ばせるアクションに支えられていたからである。・・・・・・『ファースト・ペンギン』では、男社会がひとりの風来坊の女性にひっくり返されたかのような、上を下への大騒ぎであり、「天を仰ぐ」のはむしろ男達の方ではないか?という展開になっている。森下佳子の次回作が、徳川時代の男女逆転の『大奥』であることを思うと、何か通じるものを感じるのである。

 

・・・・・・リアルな実話にフィクショナルな施しを載せること?男達の「再稼働」の為に「天地逆転」の視座のひっくり返しを図る発想は脚本家・森下佳子の転換期を思うのである。・・・・・・勿論、オールマイティな「天地無用」など、表現には希薄である。あらゆるひっくり返しには制約が伴うのである。・・・・・・そう。『ファースト・ペンギン』の、お魚ボックスの発送には、「天地無用」であるように。・・・・・・リアルな実話の核を痛めてはいけないからだ。