『ファースト・ペンギン』(第3回)を観て、主人公・和佳(奈緒)の奮闘が何を意味するか?をまたまた考えてしまった。彼女は、「お魚ボックス」の発注獲得の為に、毎日瀬戸内?から東京都心へと新幹線で出掛け、料亭・割烹店のランチを食べながら、何とかその店の懐に入れないかと画策していた。但し、その無謀すぎる食べ方は常識の範疇を大きく外れ、彼女は遂に内蔵を壊して倒れてしまう。・・・何が彼女をそこまで駆り立てているのか?過去に起きた遺恨とは何か?気になるところである。・・・消費社会の貪欲な海へと身を投げること?・・・その海自体を丸呑みすること?・・・瀬戸内・東京間の日々往復と食欲の海を標的にする為に身を削ること?・・・彼女自体がその海に溺れながら、沈むのは・・・人間離れした何処か常識を超えたアクションであり、言葉を失う限りである。まぁ、私が思うに、彼女が身体を張るのは、瀬戸内と東京の途方もない距離感ではないか?ということである。これまでの脚本家・森下佳子は、「・・・神は乗り越えられない試練は与えない」を巡る「天を仰ぐ」視線を言葉では持ちながら、実際に見上げることよりも、むしろ心の中にひっそりとその視線を常に忍ばせるアクションに支えられていた。・・・『ファースト・ペンギン』で描こうとしているのは、仰角の「天」とその視線が立つ「地」の果てしない距離感とは違うかもしれないが、新幹線を使えば毎日移動・往復できるのだけど、どうにもなり難い距離ではないかということである。そのどうにもならない距離というのは、漁師たちの社長・片岡(堤真一)が亡き妻の面影を主人公・和佳を無意識に被せているのとは全く違う性質のことなのだけど、似てなくもない。何故か?両者は、「仰ぎ見る」視線ではなく、東京へは長時間かかるものの、地面の平行移動の結果としてそこに「ある」し、亡き妻は居間の写真としてそこに「ある」からである。つまり、仰角ではなく、並列の位置に「ある」のだ。並列しているけど、「いる」のではなく、届かない「ある」であることに遣る瀬無いのである。この「ある」の遣る瀬無さを、「いる」で埋めて行こうというのが、『ファースト・ペンギン』の展開ではないだろうか?
話し手(自分)に対して、聞き手(相手)のことを 「あなたたち」、「君たち」などと表するのは、二人称複数・・・・・・ここで対になるのは?・・・・・・話し手(自分)自身を含む眼の前の全体のひとたちことを 「私たち」、「僕たち」、「俺たち」などと表するのは、一人称複数。
そう。「私たち」、「僕たち」、「俺たち」。それらが「いる」ことで「ある」の遣る瀬無さを埋めようとするのが、『ファースト・ペンギン』ではないだろうか?知佳は社長に就任するも、ジャージーを作業着にして漁師たちに混じって、「お魚ボックス」作りの一員となる。その一方で、漁師たちは、彼女にビジネススーツを贈る。「衣装」を共有したり、贈ったりのやり取りは、「私たち」、「僕たち」、「俺たち」、それらが、「いる」こと相違ないことだと思うのである。
