『ジャパニーズスタイル』は、『コントが始まる』の脚本家・金子茂樹の新作である。シチュエーション・コメディの技法で、ひとつのシチュエーションを巡る幾人かの役者の攻防?を面白くしようという意図だと思う。
・・・面白かったか?・・・微妙である。ただ、この微妙というのは、久しくこのようなドラマを観ていなかった戸惑いによるところが多いのでは?と我ながら思うのだ。
役者の演技の心積もりとしては、ワンシーン・ワンカットではないかと思うのだが、これを複数のカメラで割ってキャッチボールの呼吸を載せて行くのであるが、このパターンの演出は最近観ていなかったのだ。
私が、『コントが始まる』を好きだったのは、毎回登場するコントの誕生を巡る、お笑い芸人の舞台裏とでも言うべき日常があり、不確かな日常を泳ぎながらも、彼らならではの純情と屈折が描かれていたからである。壇上の彼らは、サーカスのピエロに例えれば、笑い顔を見るにつけ、泣き顔が見えてくる切なさがあるからである。
『ジャパニーズスタイル』の第一回をみて思ったのは、温泉旅館の跡取りのはずだったのに家を飛び出した哲郎(仲野太賀)が久しぶりに帰郷したのだが、不在の父母の指示に従って、旅館の面々が哲郎に敷居を跨がすか否かの攻防であり、シチュエーションがこれひとつに巧く限定凝縮されているな、ということである。
旅館の面々は次の通りである。フラメンコダンサーのルーシー数子(市川実日子)。支配人の影島(要潤)。UNOトランプ好きの浮野(KAZAMA)。女将代理の桃代(檀れい)。その息子・凛五郎(石崎ひゅーい)。古株従業員・梅さん(柄本明)。
それぞれが苔むす程ではないが、何やらその生きた年齢以上に積もったものが隠れているようである。これを毎回紐解きながら、そのむした苔についての当事者ならではの積もった主観と、取り巻く面々の感想と感慨を交えたそれぞれの主観塗れの客観が混ぜられていくことになるのではないだろうか?
・・・・・・『ジャパニーズスタイル』って、「ジャパニーズスマイル」のもじりか?
曖昧な日本人特有の微笑の、あれ?・・・ではなくて・・・その裏に隠した本音の「顔」のことでは?
笑いの泣き顔と、泣き顔の笑いは期待できそうである。
以下、『コントが始まる』を観てたときに私が書いたことである。このようになればいいなぁ、という期待を込めて添えます。
・・・・・・一生の日常の90%以上は、退屈の極みである。でも、それに頼って船を漕ぐように、日常という海を渡るのが、日々の暮らしでもある。弱気な私、そしてあなた。似た者同士、では?・・・凪いだ波、荒れた波、高い波、・・・ぬるい波?・・・毎日の波の高さ・・・同じ様で、違うようで・・・焦る?・・・いつも助けてくれる、あなた・・・そう、あなたが話すこと、全部・・・例えば、何かを失ってしまったと、嘆く私・・・でも大丈夫・・・あなたが語る何か他のこと?関係なさそうにみえること・・・何故だろう・・・それがいつも手掛かりになる・・・失ったと嘆いてた、何か・・・まだ、そこにあった・・・いや居た。・・・私は、何も失ってはいなかったんだな・・・そんな風に思えた私・・・だから、あなたに教えてあげたい・・・あなたも、大丈夫なのだ、と。
・・・この玉突きはビリヤードとか、ピンボールの跳ね方に近い、のだ・・・「知らなかったこと」と「知っている」ことの玉突き?或いは、「過去」と「現在」が突き合うこと?・・・・過去のわたしが、現在のわたしを押した、のだ・・・いや、推した。・・・既知が未知を突いた、のだ。
ピンボールの魔術師はいない。でも、「知らなかったこと」・「知っていること」・「過去」・「現在」。いろいろなことが入れ子になっている。
・・・・・・変えられない残り香?・・・一人ひとりの独白、だ・・・ボロボロなタオル・・・みんなで一枚布?になりたかったけど・・・まぁ、なったことはなったんだけど・・・そうじゃない・・・言えない、こと・・・だから、独白が多くなること?・・・呟きってやっぱり公表することじゃない・・・少なくとも、今すぐ、言わなくても・・・ずっと、あとでもいいと思う・・・また、逢った時でも・・・あのときのそれ、と、このときのこれ、が繋がる?・・・謎解きみたいでいいんじゃないのか?
