雪宮鈴(吉高由里子)の勤務する差産婦人科病院に産み落としたまま置き去りにして消えた女性
・・・・・・皆が嘆く・・・・・・残された子供が「かわいそう」
柊一星(北村匠海)は生来耳と口に困難を抱えている。その彼は、高校生?の時に両親を失っている。
・・・・・皆が同情する・・・・・・ひとり残されて「かわいそう」
佐々木深夜(ディーン・フジオカ)は、妻と子供を出産時に亡くしている。そのきっかけで産婦人科医を志したようである。置き去り妊婦の一件で、思う・・・・・・残された子供が「かわいそう」
・・・・・・そこには自身を被せて思うのでは?・・・・・・あぁ、自分はなんて「かわいそう」なんだ、と。
一星は、彼のファインダーに飛び込んで来た鈴の言葉を噛んでみる。
・・・・・・眼に入ること・・・・・・「かわいそう」なんかじゃない
・・・・・・言い尽くせない・・・・・・それどころか薄いあてずっぽな「回収」しか出来ない
・・・・・・言葉の「回収」って何?・・・・・・意味ない・・・・・・そう、思ったのでは?
愛やら恋やらは、それまで自分の中で完結した価値観にひびが入ることではある。「ではある」というのは、ひび入るといっても卵のからが割れるのもあれば、骨にひびが入ることでもある。まぁ、その意味ではいずれにしても致命傷ではない。何かが新しい違和感程度から始まることはある。
『かわいそう』?状況を可もなく不可もない言葉で組み立ててストーリーを回収するドラマよさらば。ストーリーを書いた文字に映らないことを汲み取るべきでは?それでも「回収」にこだわるならあなたの理性と感性の枠に置くことだ。そして何も語らないこと、では?
・・・・・・わたしはそう思ったよ、と。
描くべきは、その状況にいる人たちの到底回収出来そうもない面構えであり、アクションの連鎖である。そう。何か言語化する必要もなくも思える。表情やらアクションからなんとなく推し量ればよいのでは?輪郭の推量ウェルカムなのでは?価値観は星の数だけ。だから、極端に言えばその日の気分次第でもいい位なのだ。
雨の日と晴れの日の区別と同じ様に、雨だから憂鬱とは限らないし、晴れだから爽快に程遠い日もある。何故悲しい、何故嬉しいかは必ずしも理由はない。
いや、理由はあることはある。確かに。
・・・・・・例えば、あなたの笑い顔やら、泣き顔やら
・・・・・・嬉しそうな仕草や悔しそうな拳やら何やら、だ。
・・・・・・そういうことを見たとき、とか?
このドラマ作りの根本を叩き直している。私はそう思う。
