日本人科学者(12/25) | sakoのブログ

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日本人科学者が一変させた「物質の正体」の知識


武士の息子として生まれた長岡半太郎は、近代物理学におけるもっとも重要なブレークスルーの一つを成し遂げました(HiroSund/PIXTA)


コペルニクスやガリレイ、ニュートン、ダーウィン、アインシュタインといった科学者の名前は、誰もが知っている。そして近代科学は16世紀から18世紀までにヨーロッパで誕生し、19世紀の進化論や20世紀の宇宙科学も、ヨーロッパだけで築かれたとされている。

しかし、科学技術史が専門のウォーリック大学准教授、ジェイムズ・ポスケット氏によれば、このストーリーは「でっち上げ」であり、近代科学の発展にはアメリカやアジア、アフリカなど、世界中の人々が著しい貢献を果たしたという。

今回、日本語版が12月に刊行された『科学文明の起源』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。


科学者になった武士の息子



明治維持後、何人もの日本人科学者が近代の物理学や化学の発展に重要な貢献を果たした。しかしある一人の人物はさらに先へと歩を進め、物質の正体そのものに関する我々の知識を一変させる。


その人、長岡半太郎も、この時代のほかの多くの日本人科学者と同じく武士の息子だった。1865年に生まれ、幼い頃からヨーロッパの科学に接していた。父親は明治維持を支え、天皇の命を受けて1871年に岩倉使節団の一員としてヨーロッパに渡った。


岩倉使節団の目的は2つあった。1つめは各国との外交関係を発展させること、2つめは、日本の改革をさらに推し進めるためにヨーロッパの科学技術に関する情報を集めること。


ヨーロッパで目にしたものに感銘を受けた長岡の父は、息子のためにイギリスで科学の本を何冊も購入して日本に持ち帰った。


そんな父親に背中を押されて長岡は1882年、東京大学に入学して物理学を学びはじめた。そこから長岡は揺るぎない経歴を歩んだ。


1893年から1896年までドイツとオーストリアで学び、ヨーロッパを代表する何人もの物理学者と出会った。そしてこの間に研究者として大活躍した。


この時期の物理学が国際的性格を帯びていたとおり、長岡は科学論文を英語・フランス語・ドイツ語・日本語で書いた。


しかし、ヨーロッパで進められている科学研究をただなぞるだけでは満足できなかった。近世と同じく、日本が科学研究の世界を牽引できることを証明したかったのだ。


「他人の研究の後を追ったり、外国から学問を持ち込むのに人生を賭けたりするつもりはなかった」と語っている。


さらに内輪では、物理学を研究する動機の裏には競争的なナショナリズムがあると打ち明けていた。ある友人には手紙で、「あらゆる面でヨーロッパがこれほど秀でている理由など何一つない」と伝えている。その友人とは誰あろう、物理学者の田中舘愛橘である。


長岡が論じた原子の構造

1896年に東京帝国大学に戻ってきてまもなく、長岡は教授に昇進した。そして日本の地で、自身にとってもっとも重要なブレークスルーを成し遂げる。1903年12月5日に東京数学物理学会で1本の論文を発表し、その中で「化学原子の実際の構造」を論じたのだ。


何百年ものあいだ科学者は物質の正体について頭をひねっていた。19世紀には、その基本構造をめぐって激しい論争が繰り広げられた。


その論争に長岡がついに決着をつけて、原子物理学の分野を切り拓いた。一連の複雑な計算に基づいて、原子は負に帯電した電子の群れが「正に帯電した大きな粒子」のまわりをめぐってできているに違いないと証明したのだ。


土星を思い浮かべればいいと長岡は説明している。中心にある正に帯電した粒子が土星本体で、負に帯電した電子が環に相当する。この「土星モデル」が物理的に安定であることを長岡は示したのだ。この重要なブレークスルーのきっかけは何だったのか?


ある面では、ヨーロッパで過ごした時期の影響がはっきりと認められる。実際に長岡は1900年にパリで開かれた第1回国際物理学会議に参加して、電子を発見したイギリス人科学者J・J・トムソンと出会っている。


しかし長岡の考え方は、日本特有のある事情からも影響を受けている。ドイツに発つ少し前に長岡は震災予防調査会から、1891年の濃尾地震を調査する田中舘に手を貸してほしいと声をかけられた。


そこで6か月にわたり田中舘に同行して日本中を巡り、山を登ったり下ったりしながら、地震が地磁気におよぼした影響を精確に測定した。田中舘の最終報告書にも共著者として名前が挙げられている。


このように日本で地震研究に携わったことが、原子の物理に関する長岡の考え方に根本的な影響を与えたのだ。1905年初頭に長岡は別の論文の中で、電磁波が原子核と相互作用すると何が起こるのかを突き止めた。


注目すべきことに、その効果を説明する上では地震学を引き合いに出している。いわく、原子の中心にある正に帯電した大きな粒子は「山や山脈」のようなものである。そのため、この原子の中心を通過すると電磁波は散乱し、その様子は地震の際に地震波が山を貫くときとそっくりであると長岡は論じた。


科学はグローバルな文化交流から生まれる

1905年から1906年には、「地震波の散乱」と「光の散乱」を直接比較した2本の論文も発表している。このように長岡もまた、1900年頃に異なる文化、異なる科学分野が合流して、グローバルな文化交流から科学が生まれたことを物語る好例といえる。


長岡は物理学と化学の考え方を組み合わせ、ヨーロッパと日本両方での経験に頼った。そうすることで、近代物理学におけるもっとも重要なブレークスルーの一つを成し遂げたのだ。


今日では、原子の構造を突き止めたのはイギリスの物理学者アーネスト・ラザフォードであるとされることが多い。ヨーロッパ以外の科学者が近代科学の歴史から消されていることを示すこの上ない実例である。


ラザフォードが原子の構造に関する有名な論文を発表したのは1911年、長岡がまったく同じテーマに関する一連の論文を発表してからかなりのちのことだ。


それだけでなく、ラザフォード本人も長岡の研究についてよく知っていたし、そのことを隠してもいない。それどころか2人は顔を合わせておのおののアイデアについて議論している。1910年9月、ラザフォードはマンチェスター大学の自分の研究室を長岡に喜んで見せて回り、原子の構造を裏付けるための実験を進めていると説明した。


1911年2月には長岡に手紙で、近く発表する論文について次のように知らせた。「私の仮定した原子の構造が、あなたが何年か前に論文で提唱したものに似ていることをお伝えします」。


当然ながら1911年に自身の結果を発表した論文でも、長岡の1904年の論文を参考文献として挙げている。その脚注には、またもや近代科学の隠された歴史が垣間見える。イギリスだけでも日本だけでもなく、両者が組み合わさった結果生み出された歴史だ。


日本は19世紀末の科学の世界で大きな一翼を担っていた。この時期の日本人科学者はほぼ例外なくヨーロッパでしばらく学び、うち多くの人が第一次世界大戦勃発直前まで国際学会に出席しつづけた。しかし、国際主義とナショナリズムはたいてい並行して進んでいた。


科学とナショナリズム、戦争の関係性は、日本でとりわけ強く、1868年の明治維新後に研鑽を積んだ科学者の大部分は武家の出身だった。彼ら武家出身の科学者は、軍事力に対する従来の信念と、近代科学技術に対する新たな価値観とを組み合わせた。


「国を豊かにして軍事力を高めるには、物理学と化学を完璧なものにしなければならない」と、元武士のある東京帝国大学教官は記している。


日本の第一次世界大戦への参戦

ほかの国と同じく、国際主義とナショナリズムの繊細なバランスがいつまでも続くことはなかった。1914年8月、日本は連合国の側に付いて第一次世界大戦に参戦し、東アジアや太平洋一帯のドイツ植民地の多くを次々に奪取した。


一部の日本人科学者、とりわけドイツで学んだ人たちは心乱されたものの、自らの役目を果たした。


田中舘愛橘は日本軍に航空機の設計に関する助言をおこない、明治の日本で飛び抜けた成功を収めた工業化学者である高峰譲吉は、軍需化学物質の製造を専門とする工業研究所の設立に助力した。


オスマン帝国やロシア帝国の場合と違い、第一次世界大戦で日本が政治危機に陥ることはなかった。逆に第一次世界大戦後に日本は、東アジアで大きな科学力、軍事力、産業力を持つこととなる。


(翻訳:水谷淳)


(ジェイムズ・ポスケット・ウォーリック大学准教授)


https://news.livedoor.com/article/detail/25576492/


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