街の中に、旅の修行者が立っています。足は泥にまみれ、履いているわらじもすり切れてやぶれています。托鉢(たくはつ)、行脚(あんぎゃ)をしつづけて、繁華街の真ん中でボロボロの格好。おそらく他の通行人は怪訝な顔で通り過ぎるのでしょう。あるいは見向きもしないのでしょうが、本人はちっとも気にしていません。
仏法をきわめたい。本当の幸せとは何か。生きるとはどういうことか。道をきわめようとする人にとって、むしろ虚飾は不要です。
「破草履(はそうあい)」とは文字通り破れたわらじ、もはや役に立たないおんぼろです。わらじを履いて旅から旅へ、苦労して歩き回る。ぼろぼろになるにはぼろぼろになる過程というものがあります。その過程こそが大事なのであり、苦労をせずに真理に至ることはないのでしょう。私たちは尊いもの、聖なるものを求めようとしがちですが、美しい真理ばかりにとらわれても道を誤ります。ぶざまな姿を恐れてはなりません。
「愛の反対は憎しみではなく
無関心である」
無関心=無視
問いかけても全く何の反応もない
そして
自分に益になることは
反応が早く連絡がすぐ来る
その連絡に応えられないと
返事をすると
後は何もなし
そんな繰り返しの中
忙しいんだろうから仕方ないな
私の話なんてちっぽけなものだもんな
返事する価値もないよな
と自分に言い聞かせ
それでも何度もチャレンジして
相手から来る連絡には精一杯応えて
信じたい!という想いがあって
あきらめがつかないんですよね
だから心の傷が深くなっていくんです
でも
絆創膏がもうなくなりました
手放すことにしました
自分の違和感、心に素直に
従うことにします
先日、マヤ暦の再受講だったんですが
そこであらためて聞いたのが
私がもつマヤ暦の音4は
心の繋がりを求めるみたいで
そこにマヤ暦のチャクラ2という
心のチャクラを持っているので
心が伴わないものに敏感なんです
そして
ネガティブなエネルギーに敏感な紋章
『赤い月』をもっているので
心の波長の違和感に敏感なんです
でもその違和感を感じて
手放そうとしても
人の道というのを重んじる紋章
『黄色い人』というのを持っていて
人を手放すことに
罪悪感を持ってしまうんです
そうやって悩み続けてきたんですが
最近
『白い魔法使い』という紋章を
もつ方々が私の周りに集まってきていて
同じ紋章が集まる時って
その紋章のテーマが
自分のテーマだったりするんです
『白い魔法使い』のテーマは
ゆるし・受容
なんです
なので思ったんです
私はそのこと、人を受容し
ゆるさなければいけないのかと
でも
これまで受容受容でやってきて
悲しみ、苦しさが消えないのはなぜ?
と思って気づきました
セッションで皆さんにお伝えしているように
人をゆるすことも大事ですが
まずは自分自身をゆるしましょう
と
これまで
手放すことに罪悪感を持っていた
自分をゆるし、許可する
それが受容だと
そう気づいたら
手放すこと、人に感謝がわいてきました
学ばせてもらって感謝
忍耐を体験させてくれて感謝
おかげさまで
成長させてもらいました
仏教と言えば、蓮の花ですが、蓮は智慧の象徴なのだそうです。
「泥中の花」といいますが、
「蓮は、悪事や嘘にまみれた現世から、良いことや真実を導き出す」とも言われているそうで。
調べていたら、「蓮華の五徳」という言葉もあるそうです。
かいつまんでいうと、
① 困難な状況下でも、清らかな心を維持する
② 世界に唯一の自分が、自らの信念をもち人生を歩む
③ 誕生した瞬間から仏の心を備えている
④ 自分が悟りを開くことで、周りの人の幸福を引き寄せる
⑤ わき目もふらず、お天道様に向かってまっすぐ生きる
修行中の仏さまが持っているのは、つぼみの蓮の花で、
悟ったあとの仏さまが持っているのは、見事に開いた蓮の花。
そうやって
気づいて覚悟を決めて実践すると
次々とメッセージがきます
泥中の花
蓮華の五徳
とても心に響いて泣けてきました
私は一生蕾のままかもしれない
それでいい それがいい
手放して
本当に大切なもの手に入れます
私ができるのは
おつりの小銭を募金箱に入れる
神社のお賽銭も小銭
寄進なんてできる立場ではありません
それぞれの精一杯
そして
惜しみがないことが大切ですよね
無理して惜しむものは
ココロが届かないそうですから
今日いただいたメッセージは
無理せず、自分を誇張せず
今のままの私でいいんだと
教えていただいた気がします
こんな私の恩送りの
無料セッション
12日までのお申し込みになります
https://ameblo.jp/kkshm125/entry-12848342231.html