仕事の意味が分かっていませんでした | 酒井カロウのおそまつくん春日記

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日常生活の気付いたことなどを記事にしてご紹介します。宜しくお願いします。

  仕事は文字道理、使える事でした。本当に長年気付きませんでした。誰かに仕えることで、対価としてのお金をえることでした。

 余談として、漢字って素晴らしいですね。文字に単語の意味が表現されていますからね。

  さて、そういうことですから、仕事は、仕事を与える側と、仕事を受ける側が発生しまして、出す側は上、受ける側は下になります。出す側は、給料を払う義務と仕事の結果を受け取る権利があります。

 仕事を受ける側は、出す側の給料に見合った仕事の成果を上げる義務と仕事を受ける権利が発生します。

 仕事には、当たり前ですが、このように、出す側も受け取る側も責任が発生しますので、辛いわけです。しかし、上下関係は、出す方が上で、出される方が実際にやる側ですから仕事をやる側の方がよりつらい立場となります。

  これも、当たり前ですが、人生の目的を間違えて、仕事にしてしまった場合には、生きる手段が、人生の目的になってしまっているわけですから、下品に言えば、お金儲けが、人生の目的ですから、死ぬまで、働き続けなければ、終わりはありません。

  極端に言えば、人生の幸福よりを知らずして、働き詰めで終わる。

こうなれば、ただただ虚しわけです。

  例えば、芸術家は、美の追求をライフワークとして考える事多いですが、その苦しさの為、挫折したり、夭折したりすることがあったりします。残された作品が死後脚光を浴びても、その人の絶対の幸福にはなりません。

 西洋の哲学者でも科学者でも、まずは論文を書ける立場にならなければなりません。所謂学者にならないと世間の人は、考えた成果を聞いてはくれません。これは、最初から生きる目的が職業になってしまっていますから、生死の問題の解決には至りません。学校の試験競争をしなければなりません。

 政治家も生きる目的が政治の仕事になっていますから、本当に辛いはずです。選挙運動をしなければなりません。

 大臣も議員も仕事としてやっているから、その重責を全うすることができるのです。しかし、これを人生の目的とするから、無理が重なる、とても常識的に務まるはずはありません。

 この職業というのは、人に上下関係を生み出す装置ですから凡夫は幸福にはなれません。

 お釈迦様が最後まで仏教の布教活動が出来たのは、人生の生きる意味を迷い苦しんでいる人々に教える為だったからです。

 深夜の記事として申し訳ありません。