携挙の予定時に関してノストラダムスの10-72がラストの預言、最終結論なのだろうか? その1 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

先の記事で、
ノストラダムスは10-72の詩で「携挙の年は2017年である」
と暗示していたのではないか?

と解釈できたのでそれを説明した(暗示した)。


しかし、10-72の詩をもっと深く解釈していくと今までとは違う見解が出てきたのでそれを説明しよう。
今までは、「携挙は2017年の9月か10月」としてきたのだが、「これも少し違うのではないか?」
と思えてきた。
まあ、どちらにしてもあと半年以上はあるので焦ることはないが。

それで、ノストラダムスの10-72を再解釈していこう。
これは1回では済まないのでシリーズになる。

 

まず、ノストラダムスの10-72の詩(1999年7の月の詩)に関してだが、ちょっと前まではこの詩は、
「再臨の予定時、あるいは再臨の期限を告知した詩だ」
と考えていた。
しかし、このブログでも説明したように、
「この詩は再臨だけではなく携挙についても述べているのではないか?」
と思いついた。
つまり、「この詩は再臨の時と携挙の時を示した二重預言になっているのではないか?」
というのだ。


ただ、初めは、1行目の「7の月」が7番目の月~セプテンバー~9月を暗示している、として「携挙は(ある年の)9月に予定されている」
と解釈できる、とした。
しかし、先の記事で説明したように、この詩のナンバーと詩の本文から2017という数字が導き出されるので、

「その携挙が2017年に予定されている。携挙の年は2017年である」
と解釈できるのではないか?
と更に気がついたのである。

これについて、今日はもう少し深く考えてみよう。


しかも、ノストラダムスの側、彼の立場になって、この詩の制作過程を推測していってみるのである。

 

まず、ノストラダムスはこの詩で、
「再臨と携挙について両方を預言しよう」
と考え、そう意図してこの詩を作成した、とする。


ノストラダムスの預言というのはカトラン、四行詩という非常に短くて決まり、制約の多い凝縮した形式で書かれている。
日本で言えば和歌、短歌のようなものだ。
それで、仕方なく、というよりも意図的に比喩、暗喩という象徴技法を駆使して書いた。

 

ノストラダムスは再臨の予定時はこの詩の1行目、
1999年の7の月
ではっきりと示した。


だが、二重預言だった場合は、「携挙の時」も暗示しなければならない。
それで、彼は「携挙の年はどうやって示そうか?」
と考えた。
(ただし、以下の文は、「携挙の年は2017年である」と最初から決まっていたとして、ノストラダムスの制作過程を推測したものである)

 

彼は、まず、詩の本文の中で「2017(年)という数字が炙り出されるように詩を作成しよう」と考えた。

これは先の記事にも書いたのだが、
「詩に出て来る数字を適当に加減乗除して操作すると、携挙の年が算出されてくる、という技法を用いて携挙の年を暗示しよう」
と考えたのである。


この詩に出て来る数字は1行目の1999と7である。
普通の訳では「これだけだ」と思うだろう。
だが、4行目に Mars マルスという語がある。
これは一般的には「戦争の神、軍神マルス、か火星を指している」と思われているが、暦での3月という意味もある。


この「3月」という意味はフランス人ならば当然思い浮かぶだろう。
だが、フランス語ができない日本人ではそれを教えてもらわないと解らない。
まあ、フランス語の辞書を引けば直ぐに解るのだろうが、日本で出版されたノストラダムス本しか読まない一般の読者は、本に書かれていないと気がつかない。
というのは、1999年以前に出版されたノストラダムス関連本で「マルス=3月」とい書かれた本はほとんどなかった(のではないか?)と思われるからだ。


「ノストラダムスの大予言シリーズ」であんなにこの詩を取り上げて追及してきた五島勉氏も「マルスに3月という意味がある」とは書いていなかった(と思う)。
書いていたかもしれないが、印象に残っていない。
五島勉氏は「3月では解釈できない」と考えたのだろう。
というのも4行目の文法上、この「マルスは主語だ」と考えていたからだ。
4行目の原典はこうだ。


 Auant apres Mars regner par bon-heur.

 

五島勉氏はこの行を
マルスはその前後の期間幸福の名のもとに支配する。
と訳した。
ただし、「期間」に相当する語は原典には無いので五島氏が補って訳したのだろう。


五島氏に限らず他の研究家のほとんどが Mars マルスを主語と考えている。
だから、もし、Mars マルス を「3月」の意味に取ると、

 

3月はその前後、幸福の名のもとに支配する。

 

と訳されるが、これは文法上おかしい。意味が解らない。
それで、マルス=3月の意味は最初から除外されてしまったのである。

だが、冒頭の2語は、

Auant(Avant) ~よりも前に と
 apres  ~よりも後に、という意味だから、
Auant apres Mars だけを見ると「3月の前後に」と訳せる。
だが、そうすると、今度はこの文に主語が無くなってしまう。
しかし、


マルス(3月)の前後に首尾よく支配するために。

 

とこの行に主語を求めないで、他の行と絡ませて訳して解釈する研究家もいる。
「全部の行に主語と述語(動詞)があり、一つの行が一つの文として成り立たなければならない」
という決まりは無いのだから、「他の行とまたがって二行で一つの文になる」、として解釈してもいい訳だ。

 

ま、文法上の問題は置いておいて、この詩には、Mars という語が入っていて、これには「3月」という意味があるので「3」という数字が導き出される、というのは事実だ。
そうすると、この詩には、
「1999、7、3、という数字が入っている」
と考えられる。

 

それで、先の記事でも書いたが、


>この詩の文に出て来る数字は、1999、7、3(マルス=3月から)ですが、この数字を適当に並べて計算してみましょう。
1999+(1+9+9+9)-(7+3)=1999+(28-10)=1999+18=2017、

 

となり、2017年という年が導き出される。
しかし、これでは「かなり強引だなあ。こんな方法ではどんな数字でも導き出せるではないか」
と思う人が多いだろう。


ノストラダムス研究家で彼の作品を予言と考えて、
「詩に出て来る数字や詩のナンバーを操作すると、事件が起きた年、月、日が導き出せる」
と主張して発表した研究家もいた。
しかし、やはり「これじゃあ、どんな数字も導き出せるではないか」
と言われて、ほとんど支持されなかった。