聖書の「裸の恥を見られないように」の意味、その2 | 浅利幸彦の預言解読講座

浅利幸彦の預言解読講座

預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

8月の半ばくらいからだろうか、「9月に携挙があるのではないか?」
と考えるようになり、「ならば、今から預言の解説をしても・・・」
という思いが強くなり、
「今回は預言の解説はもういい。解説をしたかった預言もいくつもあるし、積み残しも沢山あるが、必要なものは取り上げたし、同じ繰り返しばかりになる。
今回はここまででひとまず様子を見よう。もし、9月に携挙が無くて、10月以後にその気になったらまたすればよいのではないか?」
と考えていた。

このブログでも今まで、途中で気持ちが途切れてしまい、しばらく更新を休んだ、ということが何回もあった。
その理由として「いくらやっても訪問者が増えない。反応が判らない(ほとんど反応が無い)」というのでやる気が削がれてしまった、ということもある。


ところが、掲示板や私の熱心な支持者の方が取り上げていた、ということもあり、このヨハネの黙示録の16-15の言葉を考えていくうちに、これは昨日提出したマタイ22章の記述とエペソ6章の記述と繋がっている、と解った。
とはいっても、これは昨日急に解ったという訳ではなく、かなり前から直観的には解っていた。

「このブログでも取り上げて解説したいな。解説すべき重要な記述だな」
とは思っていたのだが、解説を始めると長くなりそうだし、「面倒だな」という気もあり「今回は時間切れで諦めようか?」
と考えていたものである。

しかし、今になって考えていくと言葉も浮かんでくるし、心残りになるのも嫌なので、
「これは天使が解説しろ」
というメッセージだと思い、取り上げて解説することにした。


また、文章化していくうちに、自分でも、それまで直感だけで漠然としていたものが明白になってきた、ということもある


では、昨日挙げたテキストの解釈をしていこう。
まず、最初の、


16:15(見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。)
(ヨハネの黙示録)


という言葉から、考えていこう。


>見よ、わたしは盗人のように来る。


であるが、この「わたし」とはイエス・キリスト自身を指している。
イエスが、自分が再臨か携挙をする為に天から地へと降りて来る時の様子を表現した言葉だ。

「盗人」というのは、普通はサタン、悪魔軍団を指す語だが、ここでは「盗人のように」とあるのでひとまず、

「ひっそりと、見つからないように隠れて、いきなり姿を現す」という状況を表現したものだ、と考えよう。
イエス(天使)の再臨か携挙は「突然起きる」と考えていい。


「じゃあ、予想できないのか?」
と思えるが、そうでもない。
この次に


>裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。)


とあるからだ。
「さいわいである」というのは「救済される」という意味だ。
これは再臨とも携挙とも取れるが、文面からすると携挙と考えた方がいいだろう。
これは、文字通りに解釈すると、
「イエス(天使)が携挙のために地に降りて来た時に、イエスは、目を覚ましていて、服を着ていた者だけを救済する(携挙する)」
と解釈できる。
しかし、これは勿論「喩え」で暗示しているのだ。


ここでは、イエス(天使)が義人を携挙するために地球に来る時を、
「ある大きな家に大家族で住んでいるのだが、夜、皆が寝静まっている時に、天使は盗人のようにひっそりと隠れて訪れる」
という状況設定に喩えて説明、暗示している、考えてよい。

ここでは、時間設定は書かれていないが、「盗人のように」とあるので、「夜間に」と考えていいだろう。


その時、天使は家の玄関を小さな音でノックする。そして、
「もしも~し、義人はいますか? 引き取りにきましたよ。私と一緒に行きたい方は出て来て下さい」
と囁く。
だから、ぐっすりと眠っている人は気が付かない。


天使はわざと眠っている人達を起こさないように囁くのである。
だから、目をさましていた人しか気付かない。
それで、天使の訪問に気付いた目を覚ましていて、服を着ていた人は、静かに戸を開けて天使について行って家を出ていく。
というのだ。


つまり、天使は、「その時に目を覚ましていて服を着ていた者しか連れ出さない」というのである。


チャイムを鳴らすか、ガンガンガンと玄関を叩いて「さあ、みんな、迎えに来たから起きて下さい」
と寝ている人を叩き起こして全員連れ出す、
というのではない。
寝ている人達を起こさないように、わざとひっそりとやるのだ。

更に、目を覚ましていても裸では駄目だ、というのだ。
「服なんて数分で着れるのだから、裸でいてもいいじゃん。随分せっかちだなあ」
と思うかもしれないが、これはそういう問題ではない。


「服を着ている」
というのもただの服ではない。
この文だと「夜寝ている時は皆裸で寝るのか? 寝間着は着て寝ないのか? あの時代のユダヤは夜は裸で寝るのが普通なんだろう」
などと思うかもしれないが、

この「服」はある事柄の象徴なのである。
ここにも重要な意味が隠されているのだが、その解き明かしは別の箇所でされている。


それは後で説明するとして、この表現は、
天使は「自分たちが迎えに来る、と知っていて出かける準備ができている者しか連れ出さない」
ということを示している。


とすると、目を覚ましていて服を着ていた者は「今晩あたり天使が迎えに来るのではないか?」
と前もって予想していた、となる。
そして、「もし、天使が迎えに来たなら、躊躇わずに直ぐに着くいていこう」
と考えていたのである。
携挙を望んでいたのである。

更に、その時に、ぐっすりと寝ていた他の人達を起こして


「さあ、迎えが来ましたよ。皆さん起きて下さい。一緒に家を出ましょう」
と騒ぎ立てる気は全く無い、と言える。
「自分だけ天使に付いていけばいい」
と考えているのだ。


これは、このブログを読んでいて、このブログの趣旨を理解して信じている携挙希望者の皆さんの心境、状況と同じである。
皆さんは

「もうそろそろ携挙があるのではないか?
携挙の予定期間に入っているから今日、今直ぐにでも天使のUFOが迎えに来るかもしれない。
天使のパフォーマンスがあったら、直ぐに自分も天使のUFOを呼ぼう、
そして、天使のUFOが来たら躊躇わずに直ぐに乗り込もう、
と考えているはずだ。
何故なら、この携挙の直後には大艱難が起きると知っているからだ。
大艱難に遭って苦しんで死ぬのは嫌だ。
この携挙のチャンスを逃したら永遠に救済されない。
と充分に理解している。
理解して信じているから天使のUFOを呼んで地球から脱出しよう、と考えているのだ。
そして、今の段階でこれを理解していない人はとても携挙にはあずかれない、ということも知っている。
そういう人達に今から知らせても無駄だ。
とても間に合わないし、準備不足で条件を満たしていない人達を天使が引き取るはずがない。
だから、可哀想でも他の人達は放っておこう。
自分(と家族、子供)だけが乗り込めばいい」
と思っているはずだ。


この


>16:15(見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。)


という文は短いが、これらのことを全て含有していて暗示しているのだ。
だから、これらを全て理解していないと、この文の真意は理解できない。


さて、聖書では、イエスは「その日、その時(審判の時、再臨、携挙の時)は判らない」
と言った、とあるので、キリスト教徒もそう考えている。
しかし、ここで「目を覚まして服を着ていた者(義人)」というのは、「携挙の時が解っていた」となる。
「今晩あたり迎えが来るかもしれない」
と予想していたから目を覚ましていて服を着ていたのである。

(といってもひっそり携挙、夜間携挙を推奨している訳ではない。これは喩え話である)


ということは、「預言書から携挙の時は推測できる」
となる。
そう暗示している、と考えられる。
だから「携挙の時は誰にも解らない」と馬鹿の一つ覚えのように唱えている人は、預言書の真意を理解できていない、と言える。


しかし、こう書くとクリスチャンは、
「でも、聖書には、『いつ来てもいいように備えておきなさい』という言葉がある。この言葉通りに、いつ来てもいいように常に準備しておけばいいじゃないか」
と言うかもしれない。


しかし、そうだとすると、この話では、
「毎晩、寝ないで服を着て起きていればいいじゃないか」
となる。
しかし、そんなことは何日も続けられない。
毎晩徹夜していたら昼間眠たくなるし、仕事にも差し障る。
盗人(天使)と言っても夜来るとは限らない。
昼間に来るかもしれない。
人間、何日もずっと寝ないで気を張って起きている訳にはいかない。
「いつ来てもいいように常に準備しておけばいいじゃないか」
というのは現実的ではなく屁理屈である。


ここで言いたいのは、
「盗人(天使)が来る時を予想して、その時に服を着て目を覚ましていなさい=携挙の時を予想して、その時に準備万端でいなさい=天使はそういう者しか携挙しませんよ」
ということである。