ノストラダムス 第2章62番 マビュはすぐに死に、手無し、彗星が走る時。その4 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

ノストラダムスの2-62の詩の解説のシリーズの4回目である。
今日は4行目の「手無し」について考えていこう。

まず、この部分の訳だが3通りある。
それは、それぞれが採用している原典自体の語が異なっているからだ。
この2語を、

sang main とすると、血、手、となる。
cent mains とすると、百本の手、となる。
sans mains とすると、手無し、となる。


ノストラダムスの大事典ではこう注釈している。


山根訳4行目冒頭「百本の手」は、ほぼ原文通りの訳(厳密に言えば百本の手なら cent mains で、原文で main が単数なことに対応していない)。

ただし、ここではブランダムールの読みに従い、「手無し」(sans mains)と読んだ(発音はどちらも「サン・マン」)。

ブライラーは sang main(直訳は「血、手」。彼は「血塗れの手」と意訳)と読み、ラメジャラーは sang humain(人の血)と読んでいる。


http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/299.html


じゃあ、本当の原典はどれなの?
という疑問が出るが、それは私には解らない。それで、日本語訳からどれが正しいのか?
と考えると、
>sans mains とすると、手無し、となる。

だろう。

というのは、この訳なら解釈できるが、「血、手」と「百本の手」では解釈できないからだ。
この詩全体の意味とノストラダムスの意図からしても「手無し」しか考えられない。

その証拠のひとつとして、「手無し」と同じ、または類似した語が出てくる詩がいくつかあることが挙げられる。
つまり、「共通した語、モチーフが出てくる詩は関連していてグループを形成している」と考えられるからだ。
だが、解釈ができなければ意味が無い。


ノストラダムス研究家として正統的、学術的と高く評価されているブランダムールはこれを文字通り受け取り「手が無い奇形の子供が生まれる」と解釈している。
そして、「当時はそれは凶兆だと考えられていた」としていてそれ以上は深く追求していない。
また、他の研究家もほとんどが「手が無い奇形の子供が生まれる」と文字通りに解釈している。
五島勉氏も他の詩(1-65)だが、
「両手のない子供」はサリドマイド禍(睡眠薬としてサリドマイドを服用した妊婦から奇形児が生まれ、かつて大きな社会問題となった)と解釈した。


http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/1640.html



私も、この説を思いつく前に五島氏の本を読んだ時には、
「ふ~ん、そうなのかな」
と思っていたが。

だが、これが「解釈」と言えるだろうか?


文字通りに受け取るのならば誰でも、素人でもできる。
ノストラダムスの場合は、
「たとえ、暗喩、隠喩、象徴で書かれてあるのだから、その語が何の暗喩であるのかを突き詰めて、その文の象徴的意味を明らかにしていく作業」
が解釈だと思うのだが、

この語に限らず、全体的にブランダムールはこの作業をほとんどしない。


というか全然できていない。
「できない」、というよりは、「しない」、のだろうが。

「文字通りに受け取って何かの事件に当て嵌めていく」というのが彼のスタンスなんだろう。
だから、ブランダムールの本(日本語訳)を読んでも、象徴的解釈について参考になることはほとんどない。
あまりにも「文字通り」に受け取っているので、「パロディとしてやっているのかな?」と思ったこともあるが、ブランダムールは本気で大真面目にやっているのだ。

まあ、それでもブランダムールが正統的、学術的なノストラダムス研究家で第一人者と高く評価されているのだから、世間一般の人も「ブランダムールのスタンス、解釈が正統だ」と考えているのである。


> 『予言集』について同時代的視点から読み解こうとする研究は複数存在するが、その中でもかなり早い段階に属し、かつ最重要なものといえるだろう。


しかしながら、その豊かな古典知識と、暦書なども含めたノストラダムス作品に対する造詣の深さは他の追随を許すものではなく、初版収録分の内容については、まず第一にこの文献を参照すべきであろう。 http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/1485.html




とブランダムールを高く評価する人が多数派である。
私のように、都市名でも何でもかんでも「暗喩だ、象徴だ」と考えて解釈していこうというのは「異端だ、トンデモだ」と嘲笑されているのが実情である。


さて、では「手無し」とはどういう意味だろうか?
勿論「手が無い奇形児が生まれる」というのではない。
手が無い奇形児が生まれたからといって、「それがどうした」、と言うのだろうか?
それが地球人全体の運命に関係があるのだろうか?

まあ、「文字通りに受け取る研究家」というのは

「ノストラダムスはあの当時のちょっと予知能力があった人で未来に起きる小事件を予言した人」
としか考えていないのだから、あのような解釈しかできないのは当然だ。


では、「手無し」の本当の意味、ノストラダムスがこの語で意図しようとしていたものは何だったのだろうか?

これも以前はよく解らなかった。
というかこの詩のこの語についてもあまり考えていなかった。
ただ、「手無し」という語が出てくる詩がいくつかあることには気づいていた。
それで、この詩かどうかは忘れたが、「手無し」の意味を漠然と考えていた時だった。
「手無し、って何だろう?」
その時だった、聖書に出てくるある言葉が浮かび上がってきたのだ。
それは、イエスの次の言葉だ。


18:8もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。


18:9もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。

(マタイによる福音書)


これはイエスの言葉の中でも有名な方の言葉である。
ただし、以前、イエスのこの言葉を読んでいた時は、この言葉の真意もよく解らなかった。
文字通りに受け取って、「そうなのかなあ?」
としか思っていなかった。しかし、
「身体に指令を与えるのは脳なのに、『片手、片足が罪を犯させる』ってどういう意味なんだろう?
そんなことがある訳ないじゃん。おかしいだろう。
まあ、単なる『喩え』なんだろう」
と「喩え」にしても「医学的に理にかなっていない変な喩えだなあ」
とは思ったが。


それが、ノストラダムスの「手無し」を考えていた時に、突然この言葉が浮かんで、ノストラダムスの手無しもイエスのこの言葉も、両方の真意が解ったのである。


では、イエスのこの言葉の真意は何だろうか?
ここでは、イエスは「一人の人間の話」としているが、実は、

「全地球人をひとりの人間(の身体)に喩えている」

と考えるのである。


一人の人間の話として書かれてあるので、それをそのまま受け取ってしまうから
「おかしい、よく解らない。」
となるのだ。
これを「全地球人を一人(の身体)に喩えている」と考えれば理解できるようになる。
では、そのように考えた場合、この言葉の真意は何だろうか?


>18:8もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。


これは、
片手または片足(一部の地球人)が罪を犯させるのなら、片手、片足(その悪い者達)を切り捨てなさい。
もし、その悪人達を残しておいたら、全部の地球人が引きずられて地獄に落とされるだろう。
悪い者達に薄情けをかけていると自分達も地獄に落とされるぞ。


という忠告である。
つまり、これは、全員救済が無理になった場合の話である。
すなわち、1999年のイエスの再臨=天使の地球復帰が出来なかった場合の2000年以後の話である。


その場合は全員救済を諦めて、個人救済に移るしかない。
個人救済=携挙というのは、地球と地球に残される悪人を捨てて、自分だけ地球から脱出することである。

1999年までに天使を呼ばなかった場合は、
「天使の地球復帰ができない=悪魔軍団の地球人征服を阻止できない=地球人を全部救済することはできない」
と決定されてしまったのである。
それを受け入れられないで、いつまでも「全部の人を救済するべきだ」と考えていても、それは不可能だ。


そもそも、天使やノストラダムスを批判、嘲笑、揶揄する人=マビュ、が過半数、いや、ほとんどなのに、どうして天使の地球復帰=地球人の全体救済ができるのだろうか?
そんなできもしない夢、理想を追いかけていないで、「自分を救済すること=自分が携挙されること」を考えるべきだ。
意地が悪いマビュを憐れんでいたら自分も地獄=悪魔帝国に落とされてしまう。
だから、「悪いもの=不義なる者=マビュは切り捨てなさい」
と忠告しているのだ。


イエスのこの喩え話はこういう意味だったのだ。
ノストラダムスの「手無し」を解く鍵はここにあった。イエスのこの話が伏線になっていたのである。
手、足を切り捨てた場合、切り捨てた手足は直ぐに死んでしまう。
しかし、胴体は手足が無くても生きていける。
手足を切断した場合、その後に生きているのは胴体だけだ。


つまり、手足を悪い者達、胴体と頭を携挙された義人達に喩えているのだ。

このように考えていくと、「手無し」というのは、携挙を暗示している、と解釈できる。
携挙が終わった後は、生き残っているのは携挙された義人だけだ。
だから、手無し=携挙、と置き換えて読んでいっていい。


また、イエスの時代から考えると、

イエスがこの喩え話をした時には、既に、ノストラダムスのこれらの詩の「手無し」を見据えていた。
ノストラダムスの「手無し」の謎を解くヒント、伏線として話したのである。

つまり、イエスのこの喩え話とノストラダムスの「手無し」とを合わせて初めて両者の真意が解るように仕組まれて作成されているのだ。
だから、ノストラダムスを読まないで、聖書しか読まないクリスチャンはイエスのこの言葉の真意も解らない、となる。


また、ノストラダムス研究家で、この「手無し」とイエスの喩え話を結び付けて解釈した人は見当たらない(ように思える)
ノストラダムスが

「私の作品は聖書と調和していて、私の作品の謎を解く鍵、ヒントは聖書にある」

と書いているのに、この詩に限らないが、聖書と照合して考える研究家があまりにも少ない。
まあ、「ヨハネの黙示録等に類似の表現がある」というのはよく指摘されるが、そんなことは素人でも解る。


結局、ノストラダムス=天使、の由来と正体、意図、目的、そして、歴史の変遷を理解できなければ、ノストラダムスの詩に込められた真意は理解できないのである。