歴史の変遷と個人の運命、自由意志による運命の選択 その2 | 浅利幸彦の預言解読講座

浅利幸彦の預言解読講座

預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

さて、では、今史(この歴史)について考えよう。
今史とは、天使軍団が未来から戻って来て聖書やキリスト教を付加した歴史である。
とは言っても、いきなり前史から今史に一回でデジタル式に移行した訳ではない。
先に説明したように天使は11回もかけて、試行錯誤を繰り返して、徐々に今の歴史を形成していったのである。
その11回目の歴史が今史=この歴史である。


元史と前史については昨日説明したように我々ははっきりとは解らない。
昨日の説明も想像でしかない。
だが今史については判っている。
学校の授業で習ってきた歴史(世界史、日本史)が今史である。
とはいっても現在までしか判っていない。

今の時点で日本に生きている我々も、元史と前史ではどうだったのかは判らない。
日本のこの場所で生きていたのかも判らない。

だが、判らないものをこれ以上考えても仕方ないので、各自が今、自分が置かれている状況を受け入れた上で、これから先の未来について考えていこう。


日本という国は、世界の中でも非常に自由な国だ。
一応、思想と言論の自由は保障されている。
特にネットの世界では全く(と言ってよい程)自由で規制が無く、各自がブログなどで言いたい放題のことを書いている。
特にオカルトや陰謀論を扱ったサイトでは皆、言いたい放題、書きたい放題だ。
私でも、
「ええ、本当にそうなの?」
と驚くような説や、あるいは、
「そこまで書いていいの?」
というような説が百花繚乱である。

全部を信じていたらとても身がもたないし、そもそも相反する説も多い。
そのようなサイトやブログに書かれてあることを直ぐに真に受けて鵜呑みする人は少ないだろう。
ほとんどの人は話半分か、ただ面白がって見ているだけだろう。
(このブログだってそう思っている人が多いだろう)
でも、「もしかして、テレビや新聞では伝えていない真実の情報があるかもしれない」
と思ってそういうサイトやブログを探求しているのだと思う。


さて、日本では言論、思想の自由と共に宗教に対しても信仰の自由が保障されている。
だから、仏教であろうと、神道、キリスト教、イスラム教であろうと、何かの新興宗教であろうとその中から各自が好きな宗教を選べる。
勿論、「宗教には関心ありません」という無宗教の選択肢もできる。
厳密に言うと「無宗教だ」という人が一番多いのではないだろうか?
「仏教の人が多い」と言われているが、それは葬式の時くらいで普段から仏典を読んでいる、という人は滅多にいない。
神社仏閣に行って、手を合わせてお祈りしても、それは大抵、無病息災、家内安全、とか商売繁盛といった個人的な現世御利益を祈っているだけだ。

このように、その時々で、神社仏閣に行くと神妙に祈って(いるふりをするし)、クリスマスや結婚式ではキリスト教をファッションとして取り入れるし、という状況である。


このように、日本人は宗教に対して寛容である。
いや、節操が無い、無頓着と言った方がいいだろう。


しかし、こういう国は世界的に見ればまれなのかもしれない。
例えば、非常に厳しいイスラム教の国に生まれたら、生まれた時から周りの人が全部イスラム教徒だし、戒律も厳しい。
そうすると、それを真似して従わないと生きずらいだろう。
これは「自分で選択した」というのではない。
選択肢がひとつしかないのである。
強制的にそうされた、そうなった、と言うべきだろう。


また、ヨーロッパやアメリカでは強制では無いかもしれないが、やはり、キリスト教的な風土で育てられるので、キリスト教が刷り込まれてしまっている。
宗派や信仰の度合いは別としても「キリスト教を信仰するのが当たり前だ」という雰囲気だ。
つまり、日本に比べると、非常に選択肢が狭いのである。
その点、日本というのは、非常に選択肢が広い国である。
宗教に関しては、いろいろな選択肢があり、その数多くある選択肢の中から自分で自由に選べる(比較的に、という意味だが)


さて、これから先、未来について考えよう、と言ってもこの世=地球人の時代はあと1年ちょっとしか続かない。
2016年の7月からは悪魔軍団が仕掛けた大艱難が始まる。
ほとんどの人はこの大艱難に巻き込まれていく。
巻き込まれずにすむのは、その前に天使に携挙されて地球から脱出できた人だけだ。
だから、ギリギリ救済される可能性はある。


さて、元史と前史では今の時点で生きている人で救済された人は一人もいなかった。
地球人(過去人)を救済してあげようとしている天使軍団がまだ未来から戻って来ていなかったからだ。
だから「救済される」という選択肢が無かったのである。


ところが、今史では、既に福音が届けられている。
天使が実際に救済預言書を授けてくれて救済活動をしてくれている。
だから、その天使が差し伸べてくれた手にすがりつけば救済される可能性はある。

しかし、それは聖書の真意を理解して、その指示に従った人だけだ。

クリスチャンは、「私は神様もキリスト様も信じているし、熱心にお祈りしているから救われるはずだ」
と思っているかもしれないが、携挙の実態も方法も、予定期間も全然解っていないのだから残念ながら携挙されない=救済されない。


さて、天使の側から今の時点を見てみよう。
天使は福音預言書を授けてくれていて、救済の手を差し伸べてくれている。
これを、「船に乗っていて釣りをしている人と水中を泳いでいる魚」に喩えて考えてみよう。
ちなみに、キリストは魚に象徴されるし、キリスト教の時代は魚座の時代である。(春分点が魚座にあったので)


魚は水の中を自由に泳いでいるが、水の上の状況は解らない。
その水中に、ある時上から餌が投げ込まれてきた。
これは「聖書が歴史に付加された」と考えてよい。
天使は歴史に福音預言書=聖書を投げ入れたのである。


といっても、その餌には針と糸がついていた。
その餌をパクリと食いつく魚もいれば、食いつかない魚もいる。
餌に全く気がつかない魚もいれば、餌に気がついても食いつかない魚もいる。
また、餌に気がついて、餌が気になって、餌をチョンチョンと突いただけで食いつかないで泳ぎ去っていってしまう魚もいる。

さて、釣り人は時が来たら一斉に釣り竿を引き上げる。
そして、餌にしっかりと食いついて口に針がささって水揚げされた魚だけを収穫として持っていく。


さあ、もう解っただろう。
船にいる釣り人は天使で我々地球人は水の中にいる魚である。
投げ込まれた餌は福音預言書=聖書である。
その餌(聖書)に関心を持つ人もいれば、全く関心を持たない人もいる。
それは、それぞれの魚(人)が決めることで、自由意志である。
だが、聖書を読んでもその真意を理解できなければ何にもならない。


それで、僭越ながら、その餌をこのブログと考えてみよう。
餌に全く気がつかないで自由に泳いでいる魚は、

「このブログの存在に気がつかない人」である。
餌に気がついても食いつかない魚、あるいは、餌をチョンチョンと突いただけで食いつかないで泳ぎ去っていってしまった魚は、
「このブログの存在に気がついて、1、2ページ読んでみたが、解らない、面白くないと思ってそれっきり二度と来なかった人」である。
あるいは「しっかりと読んでいて内容も理解しているが、信じていない人、結局信じなかった人」である。
パクリとしっかり餌に食いついた魚は、
「このブログを理解しようと努め、内容を理解し、信じ、その指示に従い、さらに携挙されたい、と願って携挙の予定期間に天使を呼んだ人」
である。


天使は、時が来たら竿を上げて、食いついていた魚だけを収穫として持ち帰る。
天使は、餌にしっかりと食いついた魚しか引き上げられない。


ここで重要なのは、
魚にとって、餌に気がつくか?、気がつかないか?、あるいは、気がついたとしてもしっかり食いつくかどうか?
ということがその後の運命を決めるのだが、それは、それぞれの魚が自分で決める問題だ、ということだ。
これは、「いくつかある選択肢の中からどの選択肢を選ぶのかを自分自身で決める」、

つまり、「自由意志」と言っていいだろう。


そして、「どの選択肢を選んだのか?」によってその後の運命が決まるのだから、「自分で自分の運命を決めた」と言える。

元史と前史では選択肢はなかった。
救済は無かったのだから救済の道は選べなかったのである。
ところが、今史では、いくつもある選択肢の中にひとつだけ救済される選択肢がある。
その選択肢を選ぶも、選ばないも各自の自由である。
自由意志で選べるのだ。

しかし、自由意志で選んだ、ということは、その後の結果についても自分で責任を取らなければならない=自己責任である、ということだ。