イエスの言葉「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」の真意、その4 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

16:13どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
(ルカによる福音書)


このイエスの言葉を考察している。この中の、
>神と富とに兼ね仕えることはできない。


この「富とは何を指しているのだろうか?」
が問題になるが、私は、二元論から


>「富」とは、「拝金主義、エゴイズム」などを暗示している、と考えて、更にここから、悪魔崇拝、悪魔軍団(悪魔的未来人)を指している、と考えられる。


と解釈した。
しかし、こう解釈した人はほとんどいない。
というか私だけだろう。
ほとんど全部の人は、

この「富」を文字通りに

「富、お金、資産、財宝などの地上に存在している物、実物資産を指している」、と考えている。

そういう人は、
イエスは、暗に、
「富ではなくて、神に仕えなさい。富を捨てて神に仕えなさい。」
という意味で言ったのだろう、
と受け取って、

「救済される為には、自分の財産を全て売り払って神(イエス)に仕えなければならない」と考えた。


そして、イエスは、何回もこの解釈を正当化する発言を繰り返した。
例えば、先の記述をマタイによる福音書で、先の言葉の少し前から読んでみよう。


6:19あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21あなたの宝のある所には、心もあるからである。
6:22目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
6:23しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
6:24だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。


ここに、「天に、宝をたくわえなさい」という言葉がある。
これも比較的有名な言葉でよく引き合いに出される。
ここで、イエスは
「地上に富を蓄えてはならない。天に富を蓄えなさい
と更に明確に指示した、と解釈できる。
ルカによる福音書にもこう書かれてある。


12:32恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。
12:33自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。



ここでも、イエスは「自分の全ての財産を売って、天に富を蓄えなさい
と指示した。
「そうすれば御国に入れるだろう。そうしないと御国には入れない」
というのだ。
イエスはまた別の箇所でも同様のことを言った。


19:21イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
19:23それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
19:24また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
(マタイによる福音書)


これも有名な言葉だが、イエスは再三に渡り、
「(救済されて天国に入りたければ)自分の財産を売って、天に富を蓄えなさい」
と言った。
ここまで何回も言われると、信心深い人は「そうなのかなあ。俺もそうしようかなあ」
と思ってしまう。
しかし、なかなか俗世間を捨てるのも難しいだろう。
俗世間には苦しいことも多いが、様々な欲望を満たしてくれる誘惑も沢山あり、
本能のおもむくままに欲望に溺れる生活を送るのも魅力があって捨て難い。


だが、社会全体からみたら少数だが、これらの言葉(の解釈)を真に受けて、俗世間の誘惑を振り切って、財産や欲望を捨てて信仰の道に入った人もいた。
いわゆる修道僧、修道士、修道女と呼ばれる人達である。


そういう人は、
地上に富を蓄えても、どんな人でもやがて年老いて死んでいく。
人生なんて永遠からみたらほんの僅かの時、一瞬にすぎない。
そんな一瞬の栄華や快楽を求めるよりも御国(天国)に入って永遠の命を得て、永遠の至福に入った方が賢い、その方が得だ。」

と考えて俗世間を捨てる決断したのだろう。

イエスを信じる人達の中で
イエス様がこう言ったのだからこれは本当だろう。私はどうしても天国に入って救済されたい
と考えた人は、自分の財産を全て売って髪を剃って修道院に入って、修道士か修道女になった。
修道院では、全ての物欲、欲望を捨てて、祈りと信仰だけの清貧の日々を過ごした。


修道女は、
「イエス様は、私は直ぐに来る、と言ったのだから、この修道院に入っている時に再臨があったら、私はイエス様の指示に従ったのだから、必ず救済されるはずだわ。
髪型がどうの、ファッションがどうの、ときらびやかに着飾って男をたぶらかして享楽にふけっている俗世間の女達が救われる訳ないわ。
もし、私が生きている間にイエス様の再臨が無くても、私の魂は天国に行けるはずよ。
一時の享楽にふけっているふしだらな女どもなんて馬鹿よ。
私もそうしたかったけれども、私は永遠の救済の方を取るわ。
永遠の至福に比べたら、こんな我慢、禁欲なんて一時よ。
私が天国に行ったら、そういう一時の享楽の方を取った馬鹿な女どもが地獄に落ちて泣き叫んでいるのを見下してやるわ。
そして、一言「ざまあ」って言ってやるわ。
結局、私の方が勝ち組なのよ。」
と思って修道院で禁欲、清貧の生涯を終えたのだろう。


さあ、では、こういう世俗的な金銭や欲望を捨てて、修道院で毎日聖書を読んで祈りと信仰の清貧の生活に明け暮れた修道士や修道女の魂は審判の時に救済されて天国に行けるのだろうか?
いや、まだ、現在進行形の修道士や修道女もいるだろうから、そういう人達は救済されるのだろうか?

というと残念ながら救済されない。
では、何故、救済されないのか?というと、
イエスはそんなことを指示していなかったからだ。
イエスはこういうつもりでこの言葉を言っていなかったのである。
イエスの言葉の解釈が間違っていた、的外れだった、イエスの意図とはズレたトンチンカンな解釈をしていたから救済されないのである。


修道院でイエス様やマリア様の像の前で一心に祈りを捧げて恍惚に浸っていたのは、ただの自慰行為、マスターベーションに過ぎなかったのである。