ベートーヴェン一家は、ボンのケルン選帝侯宮廷の優れた歌手かつ鍵盤楽器奏者として知られ、楽長として宮廷の音楽家たちを率いていたベートーヴェンと同姓同名の祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの援助により生計を立てていた。
幼少のベートーヴェンも祖父ルートヴィヒを敬愛しており、同時代人からも尊敬されていた[4]。敬愛していた証拠として、ベートーヴェンは祖父の肖像画を何年間も自身の部屋に飾っている。
しかし、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちだった。
1773年12月24日に祖父が亡くなった後ある程度の遺産を相続したが、1784年までにほとんど浪費してしまった。
1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。
1782年からはベートーヴェンにとって最初の重要な教師とされるクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。
そして、ネーフェは、当時まだ作品の大半が知られていなかったJ.S.バッハの作品を与え、「平均律クラヴィーア曲集」などを弾かせている。
また、同年に作曲した『ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲』が出版されている。(これは、ベートーヴェンにとって初めての出版作品である)
1787年春、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問した。
この時代のウィーンは音楽が盛んで、ヨーロッパ中から音楽家が集まり、貴族、外交団、ブルジョアジーなどが音楽家たちを支援していた。カール・チェルニーの伝える所によれば、ベートーヴェンはこの地でモーツァルトの即興演奏を聴き、彼の演奏を「すばらしいが、ムラがあり、ノン・レガート」と語ったという。また、この際の旅費を負担したのは、ヴァルトシュタイン伯爵であるとフランツ・ヴェーゲラーは述べているが、実際はボンでのベートーヴェンの最大の支援者であるマクシミリアン・フランツであるとされている。
ウィーンで2週間程滞在した頃、ベートーヴェンは母親の危篤の報を受けてボンに戻った。母は二か月後の7月に死没した(肺結核)。
一方で父親のアルコール依存症と鬱病は悪化していった。
1789年には、家計を支えられるように父親の年収の半分を直接自分に渡してほしいという旨を、父親が無給になった場合にはどこかの村に追放するという条件付きで、選帝侯に嘆願している。しかし、このことを恥じた父ヨハンは自身の給料の半分を年4回の分割で、自らベートーヴェンに渡した。そして、仕事ができなくなった父に代わっていくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、養育と学校教育が必要な二人の弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
一方、この頃からベートーヴェン家は、リース家とフォン・ブロイニング家から生活面で助けを得ていた。ブロイニング家には、ヘレーネ・フォン・ブロイニング夫人、娘のエレオノーレ、息子のクリストフ、シュテファン、ローレンツがおり、ベートーヴェンは特にシュテファンと交流を結んだ。ベートーヴェンは多くの時間をこの家で過ごし、ベートーヴェンの親友のヴェーゲラーも頻繁にこの家に訪れていた。ボン時代の後援者としては、マクシミリアン・フランツ以外にフェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵が知られている。
1790年12月には、イギリスに行く途中で当時絶頂期だったハイドンと興行主ザーロモンがボンに立ち寄り、また1792年7月にロンドンからウィーンに戻る途中でも、ボンに立ち寄っている。どちらの時期かは定かでないが、その際ベートーヴェンはハイドンに自身のカンタータ、『皇帝ヨーゼフ2世の葬送カンタータ(ドイツ語版)』WoO.87か『皇帝レオポルト2世の即位のためのカンタータ(ドイツ語版)』WoO.88のどちらかを見せている。ハイドンはベートーヴェンの才能を認め、1792年7月には弟子としてウィーンに来れるよう約束が交わされた。
1792年11月2日の早朝に出発し、フランクフルト、ニュルンベルク、レーゲンスブルク、パッサウ、リンツ等を経由しながら1週間かけてウィーンに到着した。そして、ベートーヴェンはこれ以降、二度とボンに戻ることはなかった。
今日はベートーヴェンsonata3曲聴いてください。
初めの曲はベルが鳴り尻切れになってすみません