こんばんわ

 

こんばんわ、

古典派の3大作曲家の2人目、モーツアルトです。

 

モーツアルト コンチェルト 1楽章メインテーマのアレンジ版

 

を弾いてみました。

 

 

 

 

以下モーツアルトについてです。

 

1756年 1月27日、ザルツブルクに生まれる。

現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領であった。
父レオポルト・モーツァルトは元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、七番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。
他の五人は幼児期に死亡し、唯一、四歳上の姉マリーア・アンナだけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった。

1756年から1771年にかけて

父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。

3歳のときから クラヴィーア(ピアノの前身)を弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行う(『アンダンテ ハ長調 K.1a』)。

父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷楽師として仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地へのヨーロッパ大旅行を行った。 

これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。

1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日、 シェーンブルン宮殿でマリア・テレジア御前演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはその時手を取った7歳のマリア・アントーニアのちのマリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)にプロポーズしたという逸話がある。

7歳のときフランクフルトで演奏したさいに作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったとのちに回想している。

第1回イタリア旅行。

父と共にミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。

システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。

ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてから間もない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている。

イタリア旅行は三度におよぶが、なかでも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。

教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた。

モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。

1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。

また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。

しかしこうした賞賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王 ミトリダーテ』は大絶賛されるも、報酬はわずかなものであった。

 

後期作品と早すぎた死


1791年 1月、最後のピアノ協奏曲第27番K.595作曲する。

この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルト最後のステージとなった。

7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。

9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ『皇帝ティートの慈悲』K.621を初演。

30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール『魔笛』K.620を作曲、初演する など作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。

体調は11月から悪化し、レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分に35歳の若さでウィーンにて永眠した。

死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。

症状としては全身の浮腫と高熱であったという。

ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。

実際の死因は「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと考えられている。

リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹ったとされている。

また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。

モーツァルトは病に伏す前に、妻に「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。

実際妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。

2002年にイギリスのモーツァルト研究家は、モーツァルトはポークカツレツの豚肉の寄生虫によって死んだとさえ説いた。

また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。

1820年ごろになると、ウィーンではロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中で「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。

老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。