Good Afternoon

 

今日は朝からしとしと雨。

 

カリフォルニアは1年のうち半年入って来も雨が降らないので、

 

10月から2、3月頃までは雨が降ります。

 

日本の雨季のようには降りませんが、空梅雨?のような感じかな?

 

でも朝降ったと思ったらもう止んだ途端に道路は乾いてます。

 

やはり昔砂漠だったので乾燥してるんですね。

 

でもしとしと降り続けるとやはり湿気を感じます。

 

今日は午前中に、大好きなロシアの作曲家の作品弾いてみました。

 

 

セルゲイ・ボルトキエヴィチ

以下kipedeiaから

セルゲイ・エドゥアルドヴィチ・ボルトキエヴィチ(Sergei Eduardovich Bortkiewicz)はハリコフ県[注 1]ハリコフ(現ウクライナ)に、ポーランド貴族の息子として生まれた。(父:Edward Bortkiewicz、母:Zofia Bortkiewicz 旧姓 Uszyńska)。

 

アルテミフカ [注 2]の家族の所有地で幼い頃を過ごした。

ボルトキエヴィチはペテルブルク音楽院リャードフやカール・フォン・アレック(Karl von Arek)から音楽教育を受けた。

 

ボルトキエヴィチは1900年サンクトペテルブルクを後にし、ライプツィヒへと向かう。

その地でライプツィヒ音楽院に入学した彼は、共にリストの弟子であるアルフレート・ライゼナウアー[注 3]にピアノを、ザーロモン・ヤーダスゾーンに作曲を師事した[1]

 

1902年に教育課程を修了した彼は、卒業に際してシューマン賞を授与された。

1904年の帰国後すぐに、姉妹の友人であったエリザヴェータ・ゲラクリトヴァ(Elisabeth Geraklitowa)と結婚した彼は、その後ドイツに戻りベルリンに居を構える。この地で、彼は真剣な創作活動に入るのである。

 

1904年から1914年にかけては、ボルトキエヴィチはベルリンに住み続けていたが、夏の間はロシアの家族の元で過ごしたり、ヨーロッパ中を旅してまわるなどした

これらの旅は演奏旅行であることも多く、彼は同時代のラフマニノフスクリャービンメトネルほどには優れたピアニストではなかったものの、1902年ミュンヘンでデビューして以降、数度のヨーロッパツアーを行う程度の腕前ではあったのである[1]

 

1年間だけではあるが、彼はベルリンクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院で教壇に立ち、そこで生涯の友となるオランダ人ピアニスト、ヒューゴ・ファン・ダーレン(Hugo van Dalen)(1888–1967)に出会う。

 

ファン・ダーレンは1913年11月にベルリンで、ボルトキエヴィチの「ピアノ協奏曲第1番 Op.16」を作曲者の指揮、ブリュートナー管弦楽団[注 4]の演奏で初演した人物である。

第一次世界大戦

19世紀のハリコフ。聖母被昇天聖堂(en)が見える。

1914年第一次世界大戦の勃発は、ボルトキエヴィチの人生を激変させた。

ロシア人であった彼は最初、自宅軟禁状態となり、その後ドイツから強制退去させられてしまう。

彼はハリコフへと戻り、そこで音楽教師として身を立てると共に演奏活動も行った。

大戦終結後に待ち構えていたのはロシア革命である。

共産党員の接収により、ボルトキエヴィチとその家族はアルテミフカの土地を捨てざるを得なくなった。

 

1919年になって、白軍の蜂起により共産党が土地を放棄し、彼は帰郷できるようになった。

そこで家族の財産の再建に力を貸したが、既に略奪しつくされた後であった。

しかしながら、この生活は短期間に終わってしまう。

ヤルタへの移動中にハリコフが赤軍によって陥落したとの報は、もう彼の一家がアルテミフカには戻れないことを意味していたのである。

 

赤軍に包囲された地域には、ボルトキエヴィチの母と、彼の姉妹ヴェラ(Vera)の夫がいたが、チフスに罹りノヴォロシースクの混乱の中で2人とも亡くなってしまう。

ボルトキエヴィチはヤルタからの脱出を願っていたが、1919年11月に無料で蒸気船コンスタンチン(Konstantin)に乗り込むことに成功、コンスタンティノープル[注 5]へと無事に渡ることができた。

二つの戦争の狭間

 

コンスタンティノープルでは、スルターン付きの宮廷ピアニストであるイレン・イレゲイ(Ilen Ilegey)の助けもあり、ボルトキエヴィチは再び演奏を始め、教育活動も再開した。

彼は数多くの大使館員の間で知れ渡るようになり、その中でユーゴスラビア大使の妻であったナタリヤ・シャポニッチ(Natalie Chaponitsch)と親しくなって、彼女に「3つの小品 Op.24」(1922年)を献呈している。

彼女はボルトキエヴィチのために大使館らの音楽集会の幹事をし、また彼女とその夫の助力によりボルトキエヴィチ夫妻はユーゴスラビアへのビザを得ることができた。

 

ボルトキエヴィチ夫妻はベルグラード経由でソフィアへ赴き、そこでオーストリアのビザの発給をしばらく待つことになる。

そして1922年7月22日、夫妻はオーストリアに亡命する。

元々、ボルトキエヴィチはウィーンではなく、バーデンに住むことにしており、そこに1923年まで留まっていた。その後、彼はウィーンに移り住んで居を構え、5年に渡ってそこで暮らす。1925年にはついにオーストリアの公民権を得た。

 

1928年にボルトキエヴィチは6ヶ月間パリに滞在し、戻ってベルリンに住むようになる。1933年には、彼は再度ドイツから逃れざるを得なくなる。

ロシア人であった彼は、今度はナチス迫害に晒され、あらゆる演奏会のプログラムからは彼の名前が削除された。

彼はウィーンに戻り、1935年にブレッヒトゥームガッセ(Blechturmgasse)1の5を居住地とする。

彼はその後、生涯そこに住み続けることになる。

この頃にボルトキエヴィチは深刻な資金難に苦しみ、何度となく友人のヒューゴ・ファン・ダーレンに資金援助を依頼した。

 

このピアニストは、いつでも気前良くボルトキエヴィチを援助した。

また、この頃にボルトキエヴィチはチャイコフスキーフォン・メック夫人の間に交わされた書簡[注 6]を、ロシア語からドイツ語に翻訳した。

これらの書簡は「チャイコフスキーとナジェジダ・フォン・メックの奇妙な愛情 Die seltsame Liebe Peter Tschaikowsky's und der Nadjeschda von Meck」(Köhler & Amelang, Leipzig 1938)という題で出版された。

ファン・ダーレンはボルトキエヴィチの本をオランダ向けに校正し、「Rondom Tschaikovsky's vierde symphonie 」(De Residentiebode, 1938)と題して出版した。